大正時代を知っていますか?① 第一次護憲運動は敗北だった
『鬼滅の刃』が舞台にしている大正時代は、「大正デモクラシー」という言葉もあるように、民主化が進んだ時代です。しかし皆さんは大正時代について、学校で学んだこと、何か頭に残っているでしょうか。このシリーズでは、大正デモクラシーを中心に、この時代の知られざる真実を紹介していこうと思います。
大正のはじめにあった「第一次護憲運動」は、民衆の力が政変に作用したと、教科書などでは手放しで評価されていますが、実際はそんなに単純なも
のではありませんでした。
大正元(1912)年12 月、第2次西園寺公望(立憲政友会)内閣は、上原勇作陸相が単独辞職し、後任の陸相を得られずに総辞職しました。西園寺は、陸軍の勢力とのバランスを保つため、海軍予算を優先にし、陸軍が要求していた2個師団増設要求を当該年度で予算化することを拒否していました。上原の辞職はいわば報復でした。
キングメーカーだった山県有朋ら元老は、次期首班として再び西園寺、その後松方正義、山本権兵衛、平田東助を指名しましたが全員に断られ、ようやく、内大臣兼侍従長の桂太郎陸軍大将が、大正天皇の詔勅により宮中から出て組閣することになりました。西園寺内閣の海相であった斎藤実は、海軍拡充計画の延期に反発して留任を拒絶したのですが、これも詔勅により留任させ、何とか内閣を成立させたのでした。
第3次桂内閣は成立と同時に政党からの批判の嵐にさらされました。これが第1次護憲運動です。教科書によれば、ここで「民衆」が大活躍することになるのですが、実際には「民衆」は烏合の衆に過ぎず、各地で行われた政党などが主催する演説会でも、「閥族打破」「憲政擁護」のスローガンの陰で、大衆が欲する要求(選挙権拡張)は響きませんでした。それよりも運動の最中には、桂が新党を結成して解散総選挙を行うという観測が広がったため、「護憲派代議士の再選」という、政党の利害を第一に考えたスローガンが多く見られました。
しかし、桂は解散には踏み切れませんでした。政友会の不信任決議案上程を思いとどまらせるために、総裁であった西園寺に、大正天皇から「ご沙汰」を賜るというような戦術がかえってマイナスとなり、結局、総辞職に追い込まれたのです(大正政変)。
この時、護憲運動追随していた群衆が、国会を取り巻いていたのは確かなのですが、結局彼らは何も得ませんでした。政友会はちゃっかりと次の第1次山本権兵衛(海軍大将)内閣の与党となり、多くの閣僚ポストを獲得しました。大正3年3月、シーメンス事件の影響で、海軍予算をごり押ししようとしていた山本内閣は瓦解し、第2次大隈重信内閣が成立します。与党は、あの桂新党・立憲同志会で、加藤高明外相、大浦兼武内相(最初は大隈の兼任)、若槻礼次郎蔵相という主要閣僚の顔ぶれは、あの「悪役」第3次桂内閣と同じだったのです。そして第1次世界大戦の勃発ということもあるでしょうが、陸軍の2個師団増設問題を争点として行われた翌年3月の総選挙で、同志会が56 議席増だったのに対し、野党・政友会は80 議席減と大敗してしまうのです。
第1次護憲運動は大衆運動の勝利などではなく、敗北であるとの認識が必要です。大正初年には、大衆民主主義がまだ根についていなかったことをこそ、教科書は教えるべきではないでしょうか。
連載第16 回/平成10 年8月1日掲載
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