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戦前政党政治の功罪③ 大正デモクラシーを前進させた軍人内閣


 大正10(1921)年、原敬首相が暗殺された後、立憲政友会(政友会)第4代総裁には高橋是清が選出され、原内閣を引き継いで政党内閣を組織しました。しかし、「外様」の高橋は党内をまとめることかできず、まもなく総辞職しました。
 この後、2人の海軍大将が続けて内閣を組織します。
 最初は、大正11年に組閣した加藤友三郎です。加藤はワシントン会議の全権代表として、軍縮条約をまとめた人物で、議会運営では政友会の支援を受けました。これに対して、野党第一党の憲政会(もとの立憲同志会)は、加藤内閣は「政友会内閣」だとして批判の論陣を張りましたが、加藤に対して、藩閥云々の批判はしていません。組閣直後新聞のインタビューに答えた憲政会幹部の浜口雄幸は「加藤内閣は政友会の傀儡にすぎないが、加藤氏は人格、識見ともに欠如するところはない」とコメントしているように、準政党内閣という位置づけで対抗意識を持っていました。
 実際、加藤は軍人でありながら、今日のことばで言えば、着実に民主化の実を挙げていきました。ワシントン会議でその潮流が明らかになった軍縮を積極的に進め、兼ねてからの懸案であり、外交上のガンであったシベリア出兵を終わらせました。水野練太郎内相を委員長に、衆議院議員選挙法調査委員会を設置して、憲政会が強く求めていた普通選挙についての調査を始めました。なんと加藤は、「軍部大臣文官制」を唱えたことさえもあるのです。
 加藤が首相在任中に死去した後、大命を受けたのは、加藤とともに日露戦争を指導した山本権兵衛で、大正12年8月末に第2次内閣を組織しました。
 今度こそ自分にお鉢がまわってくると期待していた憲政会は、山本からの協力要請を断り、政友会もそれに同調しました。確かに薩摩藩の大御所・山本の組閣は、表面的に見れば時代逆行ということに
なります。
 ところが、第2次山本内閣の親任式が行われる予定だった9月1日、関東大震災が首都圏を襲いました。「藩閥内閣復活」と、山本内閣に風当たりが強かった新聞も、「我らは山本内閣に休戦を宣し、挙国二致の実を挙げねばならない」と論ぜざるを得ませんでした。山本内閣はもちろん震災復興に全力を注ぎました。
 一方、山本は、大きな決意を胸に秘めていました。それは、普通選挙実施でした。二大政党からはそっぽを向かれた山本でしたが、「憲政の神様」と称された犬養毅率いる小党・革新倶楽部の協力を得ました。大養は兼ねてからの普選断行論者です。入閣の条件はもちろん、早期に普選を行うことでした。山本は犬養に逓信相のポストを与え、組閣の1カ月後には「普選案要綱」を決定しています。
 ところが、帝国議会の開院式に向かう途中の摂政宮裕仁親王(昭和天皇)の馬車に、難波大介というテロリストが銃弾を放ちました。虎の門事件です。この事件の責任をとって、山本は総辞職に追い込まれてしまいました。 
 一般に学校教育における戦前の政治史は、政党内閣は良い内閣、非政党内閣は悪い内閣、という色分けで単純化してしまっています。しかし、2人の海軍大将は、当時の政党内閣に勝るとも劣らない施策に手を着け、大正デモクラシーを前進させていたのです。彼らの働きは、間もなく始まる「憲政の常道」時代への橋渡しとして素直に評価されてしかるべきです。

連載第130回/平成12年12月6日掲載

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