戦前政党政治の功罪① 政党内閣時代への道
武漢を起源とするCovid-19(いわゆる新型コロナウイルス)感染症禍に明け暮れた令和2(2020)年は、戦前の政党政治を良くも悪くもリードしてきた立憲政友会(政友会)が成立して120年目の年でした。
軍に媚びるように、議会制民主主義を放棄した政友会をはじめとする戦前の政党政治家の所業を、今日の政治家もあまり顧ることはないようです。ナチスばりの人権蹂躙を現在進行形で行っている中国共産党が、今年(令和3年)に結党100周年を迎えたということで、与野党がそろって祝電を打つなど、相変わらずのセンスの悪さを露呈し、メディアもそれを一切批判しません。そんな媚中政治家の一人である小沢一郎は原敬を尊敬していると公言していますが、小沢のやってきたことを原が見れば、尊敬などしてくれるなと憤ることでしょう。
思い付きで行われる政策、特亜に媚びる外交、コロナ下とはいえ、日本の政治は相変わらず右往左往の連続で、日本を亡国の縁に追いやったあのころから成長していないように見えます。
私たちがまず歴史に学び、戦前の政党政治を振り返ることで、もう一度議会制民主主義を見直す時が来ているように思います。無責任な政治家を国会から駆逐できる日が来ることを願い、このシリーズをリリースします。
歴史教科書では、一般に戦前の議会制民主主義は軽視されており、特に、昭和戦前期に軍が台頭したことに責任を転嫁し、政党政治家や、それを健全に育てることができなかった国民にも責任があったことを指摘しません。
アメリカがつくった憲法に規定される以前から、日本では議会制度が機能していたこと、そしてそれを動かすべき政党政治家が、何を行い、そして何を行わなかったかということを学んで、今日の議会制民主主義(これこそが国民主権です)をより強固で健全なものにするところに歴史教育の目的の一端はあるはずです。
それでは政党政治の歴史をひもといてみましょう。
わが国で最初の政党内閣は、明治31(1898)年に成立した憲政党による第1次大隈重信内閣です。日清戦争(明治27~28年)を通じて、藩閥と政党の提携が実現していましたが、この時、自由民権運動の雄であった板垣退助の自由党と、大服の進歩党(元の立憲改進党)が合同して、憲政党が生まれ、衆議院の大勢力となりました。
そして、議会運営に行き詰まった第3次伊藤博文内閣の後を受けて、大隈に組閣の大命が下り、板垣を内相に据えた「隈板内閣」が成立しました。しかし、所詮寄り合い所帯の憲政党はまとまりがつかず、尾崎行雄文相の「共和演説問題」をきっかけにして、憲政党と憲政本党に分裂してしまい、内閣はわずか4ヵ月で崩壊しました。
次の第2次山県有朋内閣は、いわゆる「反動的」な政治を行いました。陸軍の、そして内務官僚のボスだった山県は、政党の影響が軍や官界に及ぶことを制限するため、軍部大臣現役武官制を定め、文官任用令を強化して、政党人が陸相、海相や高級官僚に任命される這を閉ざしました。
このような、露骨な政党排除の政策に反発した憲政党(旧自由党系)は、政党の必要性を認知していた伊藤や西園寺公望といった指導者に接近し、明治33年に、伊藤を初代総裁とする立憲政友会を結成したのでした。そして、伊藤は自ら第4次内閣を組織しましたが、これは短命に終わり、まもなく日露戦争(明治37~38年)のため、政党内閣の歩みは中断しました。
戦後は、山県と陸軍・藩閥・官僚の庇護を受けた桂太郎(陸軍大将)と政友会第2代総裁となった西園寺が交互に政権を担当する「桂園時代」となりました。「情意投合」と桂が表現したように、西園寺政友会内閣も、閣僚のすべてを与党から選んでいたわけではなく、旧勢力との妥協の下に成立していたのでした。
しかし大正2(1913)年、第1次護憲運動の結果、第3次桂内閣が政友会や犬養毅率いる立憲国民党により退陣に追い込まれ、第1次山本権兵衛(海軍大将)内閣が成立します。この山本内閣は陸相・海相・外相以外の全閣僚を政友会から入閣させた「準政党内閣」でした。山本内閣は政友会の要求した軍部大臣現役武官制の撤廃や文官任用令の改正など民主化の実をあげ、本格的な政党内閣時代への筋道をつけたのでした。
こうして大正初期には、政友会が、唯一政権担当能力のある政党に成長して、まもなく始まる「政党内閣時代の土台を形成したのでした。
連載第128回/平成12年11月22日掲載