なにわの近現代史PartⅡ④ テロ輸出の共同謀議だった大阪事件
明治17(1884)年、朝鮮で親日派・独立党の金玉均らが挙兵しました。甲申事変です。しかし、唯一の属国を守るため、清国軍が大挙出兵し、クーデター計画はあえなく失敗しました。実は事件前、独立党の志士たちは、日本政府が積極的に援助してくれないので、自由民権派の雄・後藤象二郎に援助を求めていました。後藤は自由党首・板垣退助と相談し、「朝鮮改革」計画を立てました。フランスの援助を受け、私兵を組織してクーデターに参加するというものでしたが、結局実現しませんでした。その後、党員によるテロ事件に手を焼いた板垣が自由党を解党したので、民権派による「朝鮮改革」は棚上げになりました。
しかし、自由党幹部であった小林樟雄は、大井憲太郎、磯山清兵衛らと結託し、翌年5月、密かに新しい計画を立案したのです。朝鮮にテロリストを送り、親清派である事大党の政治家を皆殺しにしようというものです。愚かにもこれが、悪政に苦しむ朝鮮の民衆を助け、国威を回復し、国内世論を喚起する、「一石三鳥」の計画だと彼らには思えたのです。
8月、東京の秘密工場で爆弾や武器を準備した一味は、一旦大阪に集結しました。そこには自ら志願して参加した、18歳の少女、景山英子の姿もありました。彼女は当時小林と婚約中でした。
景山の最初の仕事は、鞄に詰めた爆弾を、怪しまれないように大阪まで運ぶことでした。大阪では、さらに同志を募り、大井と小林から送られてくる資金を待つはずでした。ところが志士気取りの男達は、遊女相手に毎夜毎夜のどんちゃん騒ぎで、湯水のように金を使っていのです。資金が足りなくなると、強盗事件を起こすなど、志とは正反対の行状です。
余りのひどさに愛想をつかした景山を含む8人は、先に朝鮮渡航を実行しようと長崎へ渡りました。ところがすぐ後から来るはずの磯山は、資金を懐に蒸発してしまい、挙げ句の果てに「陰謀発覚」のニセ電報を打って、メンバーを混乱に陥れたのです。
何とか事態を収拾した大井たちは、再び壮士を長崎に送りました。ここにも景山の姿がありました。そしてまさに彼女たちが渡航せんとする11月23日の早朝、一味は長崎の旅館で一網打尽にされました。同じ頃、大井や小林たちも大阪で逮捕されていました。実は、大阪府警は、一味の根城であった淀屋橋の旅館をずいぶん以前から張り込んで、逮捕の機会をうかがっていたのです。
これが、教科書では「自由民権運動」の一環とされ大阪事件のあらましです。日本国内の自由化、民主化にはほとんど関係のないテロ輸出未遂事件でした。
明治19 年5月から始まった公判に、「自由」と染め抜いた揃いの羽織を着用して話題になった一味でしたが、強盗に走った者を除けば、意外に軽い量刑でした。明治23年には、彼らは憲法発布記念の大赦で、揃って出獄しました。
シャバに出た彼らを待ち受けていたのは大阪市民の熱烈な歓迎でした。政府の生ぬるい外交政策に不満を持っていた市民は、テロリストの歪んだ志に拍手を贈ったのです。
連載第56 回/平成11 年5月19 日掲載