外交家列伝⑤ 広田弘毅(1878~1948年)
大東亜戦争中に悪事を行ったのは日本だけだ、という宣伝のために行われた国際的な茶番劇「東京裁判」。私はこれを「東京偽裁判」と呼ぶことにしています。そこで文官としてただひとり、A級戦犯として絞首刑になったのが広田弘毅です。GHQ の目が光っていた当時、彼のための助命嘆願の署名活動が行われたことでもわかるように、広田の死刑は余りにも意外でした。というのも、平和のために努力していた広田が死刑にことの理不尽さが、情報の少なかった当時の人々にさえわかっていたからだと思われます。
広田は明治11(1878)年に福岡県の石屋の家に生まれました。東京帝大を卒業後、明治39年に外交官試験に合格しました。駐ソ大使等を歴任した後、昭和8(1933)年、斎藤実挙国一致内閣に、内田康哉外相に代わって入閣し、次の岡田啓介内閣にも留任しました。2.26 事件後は、大命を受けて組閣して外相を兼任(後に有田八郎) 。昭和12 年には第1次近衛文麿内閣に副総理格の外相として入閣しました。
広田の外交政策は歴史上「広田外交」と呼ばれます。特に、満州事変後の中国との国交正常化に広田は力を尽くしました。昭和 10 年、広田は日中国交正常化のベースとして「広田三原則」を発表しました。その内容は、①排日の取締り、②満州国の黙認、③共同防共でした。①は国交調整のガンであり、② は孫文以来、満州は中国の範囲でなかったこともあり、既成事実(満州国)があるので承認しなくともよいということで、③ は蒋介石の方針とも一致していました。これは当時の国際情勢を見れば穏当な原則であり、蒋介石政権も、広田に信頼を寄せました。また各国に先駆けて、駐華公使を大使に昇格させるなど、中国のメンツも立つような政策を行いました。ところが、政府に無断で陸軍が華北分離工作を行ったため、外務省が二枚舌を使っているよう印象を与える結果となってしまったのです。
首相兼外相の時も、有田駐華大使を召還して後任の外相に据えるなど、日中国交調整に意欲を示しましたが、今度もまた陸軍が綏遠事件を起こしてしまったため、とん挫してしまいました。
近衛内閣の時には、就任早々蘆溝橋事件が起こり、中国側が停戦協定を無視し、また、通州事件(中国軍による日本人大量虐殺)を起こし、蒋介石が上海に戦線を広げたりしたため、局地紛争は支那事変となりました。外務省は、民間人を使った船津工作、続いて駐華独大使の仲介によるトラウトマン工作という早期和平工作を推進し、寛大な条件を提示して、休戦と共に日中の懸案を解決することを図ったのですが、政府は南京陥落により、国民感情を考慮して和平条件を加重し、蒋介石からの返事を待てず、有名な「国民政府ヲ対手トセス」という近衛声明を発表してしまうのです。広田はこれに反対することなく、近衛の方針に追随します。
広田が平和を望んでいたことは誰の目にも明らかでしたが、この時、時流に抗しなかった彼がオランダ在勤当時に詠んだ「風車風の吹くまで昼寝かな」の句を地でいったようです。半ば諦めたような、文字通り風に任せた彼の態度は、有能な彼自身にとっても、我が国にとっても残念なことでした。
連載第28 回/平成10 年10 月20 日掲載