アジアと日本の歴史② インドネシア~独立宣言に「皇紀」を使った国
インドネシアはかつて蘭印と呼ばれたことでもわかるように、オランダの植民地でした。オランダは1595年以来侵略を続けていましたが、とりわけ1830年に始めた強制栽培制度は過酷なものでした。ジャワの原住民から耕地の5分の1を供出させ、コーヒーなどの商品作物を強制栽培させたのです。豊かだった水田は次第に消えてゆき、度々飢饉に見舞われるようにもなりました。
昭和16(1941)年12月、大東亜戦争が勃発すると、オランダ政府は我が国に対して宣戦布告しました。これに対して日本軍は蘭印を攻撃して、各地でオランダ軍を粉砕し、翌年3月にはジャワ島に上陸して10日足らずでオランダを駆逐してしまいました。
インドネシア人は熱狂的に日本軍を歓迎しました。彼らは「ジョヨボヨ伝説」を思い出していました。それは、「背の低い黄色い人がやってきて、オランダ人を追い出したあと、トウモロコシの実る頃に去ってゆく」というものです。また戦前からジャワに住んでいた日本人商人(トコ・ジャパン)が親日的な土壌を育んでいたのも忘れてはならない事実です。
日本軍はまず、幽閉されていた独立指導者のアーマド・スカルノとモハンマド・ハッタを獄中から救出し、民族運動の指導者として認めました。「主人がオランダから日本に代わっただけだ」と考えた人もいましたが、2人は日本の大東亜共栄圏構想を信頼して、軍政に協力しつつ、独立へのチャンスを待つことにしたのです。
実際、日本軍政はインドネシア人にとって驚きの連続でした。オランダ時代に禁じられていたことが次々と解禁されていったからです。多くのインドネシア人は、日本軍の功績として次のような点を挙げています。
第一に、インドネシア語を作ったことです。インドネシアは多くの島からなっているので、言語も多様で、インドネシア人同士での意志の疎通も困難でした。そこで日本軍は共通語を定め、それを普及させたのです。第二に、イスラム教への寛容です。インドネシアには既に13世紀にイスラムが伝えられ、国民の多くがムスリムでした。オランダ時代には制約が多かったのですが、日本軍はイスラム教徒の団結を積極的に活用しようと考えたのです。第三に、学校教育、軍事訓練を含めた集団訓練を行ったことです。オランダ時代には、数人のインドネシア人が集まることすら禁じられていました。中でも初めてのインドネシア人だけの軍事組織として作られたPETA(祖国防衛義勇軍) は特筆に値します。我が国の敗戦後も、自力で独立戦争を戦えたのは、PETAの力によるところが大きいと言えるでしょう。
ジャカルタの空港にその名を残す、初代大統領スカルノと副大統領ハッタが署名した独立宣言の文書が、今も保管されています。その日付は、「17・8・05」となっています。「05年」とは「皇紀2605年」のことです。神武天皇即位以来2605年目とされる年が、西暦1945年です。これは、当時のインドネシアの人々が、我が国の外交政策の柱であった、大東亜共栄圏構想をまじめに受け止めていた証拠だと言えるでしょう。
連載第34回/平成10年12月8日掲載