外交家列伝⑨ 吉田 茂(1878~1967年)
歴史に「もしも」はタブーだと言います。でも、第2次世界大戦後、長らく総理大臣を務めた吉田茂は、もしもあの時外務大臣になっていたら、また、あの時憲兵に逮捕されていなかったら、誕生することはなかったかもしれません。
板垣退助の子分で、自由民権運動活動家だった竹内綱の5男として吉田茂は東京に生まれ、後に実父の活動を財政的に助けていた横浜の実業家・吉田健三の養子となりました。吉田は学校遍歴を繰り返した後、明治39(1906)年7月に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、外務省に入省しました。同期には首席で合格した広田弘毅がいました。吉田は中国での勤務が長かったのですが、条約で守られている権益を守るために、日本は積極的に動くべきだと考えていました。
昭和2(1927)年4月に立憲政友会の田中義一内閣が成立すると、田中が外相を兼任し、森格外務政務次官が影の外相として活躍しました。森は商社マン出身の中国通で、吉田と同じく対中積極論者でした。森は6月27日から7月7日にかけ、軟弱外交と揶揄された幣原外交にピリオドを打ち、新たな対中政策を確立すべく、東方会議を開催しました。この会議には奉天(現在の瀋陽)総領事だった吉田の姿もありました。当時中国では北伐軍が外国人を襲う南京事件や漢口事件が発生し、欧州諸国が共同出兵を提案していましたが、それを押しとどめたのが第1次若槻礼次郎(立憲民政党)内閣の幣原喜重郎外相でした。しかし、南京事件では日本総領事館で屈辱的な乱暴労狼藉が働かれるなど、世論は激昂していました。会議では条約に守られた権利を蹂躙されたままで在留邦人の保護すらできない状態を解消し、必要があれば出兵も辞さず、積極的に対応するという「対支政策綱領」がまとめられました。条約を守ったうえでの満蒙分離を持論としていた吉田は、翌年外務次官となり、引き続き田中積極外交を支えていくことになりました。
昭和12年、2.26事件の後、岡田啓介内閣が総辞職すると、後任に指名された近衛文麿はこれを固辞し、代わりに岡田内閣の外相であった広田弘毅を推薦したのです。広田はこれを受諾し、同期の吉田を外相候補とし、組閣参謀としたのですが、これに対して陸軍から陸相候補として推薦された寺内寿一が横槍を入れました。自由主義者・牧野伸顕の娘婿である吉田を外相にするなという露骨な干渉でした。内閣を成立させるために広田は外相を兼任し(後に有田八郎)吉田は駐英大使に転じました。
ここが第一の運命の分かれ道になったということです。理不尽な理由により文官でただひとりA級戦犯として死刑になった広田の下で吉田が外相になっていたら、戦後は、後にライバルとなる鳩山一郎と共に公職追放の憂き目にあっていたことは間違いないでしょう。場合によっては、吉田自身が戦犯に指名されていた可能性さえあります。広田よりもはるかに吉田の方が、強硬な意見を持っていたからです。
昭和14年に外務省を退官した吉田は、大東亜戦争中に牧野、近衛、幣原、原田熊雄(西園寺公望の元秘書。『西園寺公と政局』の著書で有名)らとともに、東条英機内閣の倒閣運動や和平工作を模索していました。しかし陸軍はこの動きを察知し、「ヨハンセングループ」という符丁で呼び、監視対象としていました。昭和20年2月、近衛は吉田にいわゆる「近衛上奏文」を示しました。「陸軍は親ソ的であり、戦争が長期化すれば赤化の危険性があるので、国体護持のためには戦争終結を急ぐ必要がある」という内容でした。これに吉田は同意し、牧野に内容を知らせるために写しを取ったのですが、吉田邸に潜入していたスパイによって陸軍当局の知るところとなり、吉田は4月に逮捕されたのでした。
これが第二のポイントだと思われます。「東京裁判」では日本による侵略の起点を田中内閣に置いており(その根拠とされたのが有名な偽文書「田中上奏文」です)、そこで重要な役割を果たしていた対中強硬派の吉田は、この逮捕により、免罪符を得たともいわれています。
尤も、吉田はすぐに釈放され、間もなく終戦を迎えました。そして9月に成立した東久邇宮稔彦王内閣、11月に成立した幣原内閣の外相に就任した吉田は、日本自由党総裁だった鳩山が公職を追放されると後任総裁への就任要請を受け、昭和21年5月に大命を受けて内閣総理大臣に就任し、第1次内閣を組閣しました。吉田は大日本帝国憲法下の天皇による組閣の大命を受けた最後の首相となり、その後新憲法下で第5次まで内閣を率いることになります。
吉田の経済中心主義には今では批判もありますが、戦後復興に力を注いだ功績は否定しがたいものがあり、また「吉田学校」の保守本流のスピリットは、自由民主党に脈々と受け継がれています。
この原稿はnoteのための書き下ろしです。