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外交家列伝⑥ 有田八郎(1884~1965年)

 有田八郎は明治17(1884)年に新潟県佐渡島に漢方医の6男として生まれました。実兄・山本悌次郎は、二高教授などを経て、立憲政友会所属の代議士となり、農相を2度勤めた人物です。有田はこの兄の勧めで、東京帝大卒業後、外交官となりました。
 大正 8(1919)年、我が国は戦勝国としてパリ講和会議に参加することになり、日本代表の末席の、庶務担当事務官として有田も派遣されることになりました。会議では、自国に関係のない議題について準備ができていなかった日本全権団は、ウッドロー・ウィルソン米大統領、デイビッド・ロイド=ジョージ英首相、ジョージ・クレマンソー仏首相らの陰に隠れて、全くさえませんでした。会議の流れに全く乗ってゆけない首脳陣を見た有田たち若手官僚は屈辱的な思いを抱きました。そこで有田は、後輩の重光葵と相談して、外務省の機構改革や省員養成などを訴えた趣意書を作成し、全権団員及び世界各国に勤務している若手・中堅外交官に配布したのです。この有田の活動は本省をも動かし、大正9年には情報部が設置され、また外交官試験合
格者に対する研修制度が始まりました。
 その後有田は、駐ベルギー大使などを経て、昭和11(1936)年に広田弘毅内閣の外相に就任しました。満州事変後の日中国交正常化に尽力しますが、「有田外交」で特筆されるのは、日独関係の急速な緊密化を抑止したことです。
 広田内閣の時に、ドイツから防共協定締結の提案がありました。案文は、後に駐独大使となり、日本外交をミスリードした大島浩駐独陸軍武官とアドフル・ヒトラーの外交顧問(後に外相)ジョアキン・フォン・リッベントロップが考えたものでした。確かに、昭和10年の第7回コミンルン大会で、いわゆる「3 5 年テーゼ」が採択されていたこともあり、各国は国際共産主義運動に危機感を覚えていたのは事実です。しかし防共協定を結べば、それは事実上ソ連のみを対象とするのは誰の目にも明らかです。有田はソ連との不要な摩擦を避けるため、有田は「薄墨色」程度の協定を結ぶ決心をし、それを実行したのです。
 翌年、第1次近衛文麿(改造)内閣に2度目の外相として入閣し、次の平沼騏一郎内閣にも留任した有田は、この防共協定の強化、つまりドイツからの同盟条約への格上げ提案という問題に立ち向かうことになります。有田は米内光政海相と共に、ドイツの代理人となった大島駐独大使と、彼に追随する板垣征四郎陸相の「英仏をも同盟の対象とし、参戦義務を認める」という
案に反対を唱え、その阻止を図りました。ところが大島は外相の訓令を無視し、全く反対の返事をドイツ側にするなど、強引に同盟条約の調印に突っ走ろうとしたのです。しかしドイツが防共協定の趣旨に反する「独ソ不可侵条約」を結んだため、一時その交渉は中断しました。大島はドイツ側に抗議するよう訓令を受けたのですが、それも握り潰してしまいました。
 有田と言えば戦後東京都知事候補となったこと、三島由紀夫の小説『宴のあと』のモデルとなったことで知られています。有田は三島と新潮社をプライバシー侵害で訴え、日本で初めてプライバシーと表現の自由が争われました。
 しかし有田の功績は、我が国が第2次世界大戦に巻き込まれないよう、ドイツとの関係について慎重に対処したということで記憶されるべきだと思います。

連載第29 回/平成10 年10 月27 日掲載

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