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虚無虚無負輪
キョムキョムプリン。
ポムポムプリンちゃんをもじったネットスラング(?)に、
虚無の連続と負の連鎖って感じで当て字ってみました。
えー、それはさておき。
以前呟いたこともありますが、
うつ病で通院中だというと謎の民間療法や宗教の人が絡んでくるのなんでだろー♪
まぁ、向こうに悪気はないんでしょうが、いやある場合もあるのか?知らんけど。
とにかくおそらくたぶんMaybe、ただ自分が信じているものが相手の救いになれば、という善意なのだとは理解しておるつもりですが
いざ浴びるとキッッッッッッツイので、正直精神疾患の人に「自分の信じるもの」をオススメするの、やめていただきたい。
勧めるとしたら医療一択です。
特に国民総病み時代の昨今、初診予約とれないと断られることも死ぬほど多いので、
初診受け付けてくれる心療内科が紹介できないなら黙っていておくれというのがぼくの気持ちです。
なんで急にこんな話をするのかというと、
うつや依存症などの病気を、「心の問題」「その人の性根の問題」とする風潮が、この令和になっても一向に消えないと骨身に染みるからです。
ここからおふざけなしの重ための話をしますが、
ぼくの身内に、アルコール依存症の人がいます。
この頃は、著名な方にもおそらくそう(依存症)であろうと思われる事例がいくつかあり、
ほんの少し、そういった病気があると認知されてはきたかなと感じはするのですが、
リアルにその病気の人と接している人間としては
その「病気」の本質というのは、いまいち伝わっていないというか、
理解をする機会がないとつくづく思うわけです。
まぁそりゃそうでしょう、
基本的にそんなこと誰も教えてくれないし、
仮に情報として教えてもらったとしても
「それ」が実際どんなもんなのか本質を理解·····というか、
思い知るのは、
実際自分の身に降りかからないとわからないんですよ。
悲しいけどこれ、現実なのよね。
かく言うぼくも、
依存症というのは意志が弱い、だらしない、どうしようもない人がなるもんだと思っていました。
だって止めたらいいんですもん、簡単じゃん。
止めたら人から軽蔑されたり、
薬物の場合はお金がなくなったり逮捕されたり、
体壊したりしなくて済むんですもん、簡単なことじゃん。
なんでそんな簡単なこともできないの?
嗚呼、それがこんな年齢になっててめえの身に降りかかることになろうとは。
身内のアルコール依存症に自分のうつ病のダブルパンチですわ。
なんでこんなことになったのでしょう。
俺が一番知りたい。
なんやっけ、「神は乗り越えられる試練しか与えない」って名言あるじゃないですか。
それは乗り越えられた人だけが生き残るからでしょうよ、と今なら思いますねぼくは。
そもそも誰の許しを得て試練与えとるんや何様のつもりだ、神様でしたサーセンしたーーー!!!!!
で、そのダブルパンチを食らっているなう、なぼくは通院と、身内を半分無理やり連れてったアルコール専門医院の家族の会というものに通う日々を送っています。
家族の会というのは、断酒会の家族のみバージョンみたいなものです。
週一でアルコール依存症患者の家族が集まってミーティングをします。
当事者ではない人からしたらなんのこっちゃですよね。ぼくも最初なんのこっちゃでした。
家族会、断酒会については
ちょっと前にTwitterなどでも話題にあがっていた、依存症啓発漫画『だらしない夫じゃなくて依存症でした』の第7話がわかりやすいと思うのでリンク貼っておきます。説明を丸投げしてすみません。
https://www.mhlw.go.jp/izonshou/izonsho_manga_v07.html
で、通い続ける中で助かったと思うこともたくさんあるのですが、
定期的に、
誰の話も、誰の助言も、誰の優しい言葉も刺さらない、虚無の時が訪れるようになりました。
それがまさに今、この文章を書こうと思ったきっかけです。
特に今日は、家族会の進行をしてくださるケースワーカーさんの言葉すら全く何も刺さらなかったんですわ。
たぶんここしばらく家族以外と会話してなかったせいもあると思うんですが、
まー誰のことも気遣えない。
年始にメールをくださった方へのお礼すら言えない。
そんな失礼な自分に嫌気はさすのに、気付いても行動に移せない。
ただ自分の体験談をオイオイ泣きながら話して、
泣きすぎてぼーっとしているうちに、
「なんで俺はこんなところでこんなことをしているのだろう」
という思いが噴き出てきて止まらなくなりました。
なんで俺がこんな目に遭うのだろう
こんなことして何になるのだろう
まさに虚無。
もうなんか、何にも向き合いたくないし、何にも立ち向かいたくない。
何もかもがどうでもいいし、なんやったら依存症当事者は死ねばいいし、自分も生きてる意味を特にもう感じないし、推しのことは推したいからそういう意味では生きていたいけど、自分の未来に何の展望も見いだせないという意味では、死んだ方がいいんじゃねえの?という、
どうでもいいから何もかも勝手にどっかへ流れて消えてってくんねぇかな
という、思いが死ぬほど溢れて止まりません今も。
今までやってきたことを無駄だったとまでは言わないけど、
それが今、何の役に立っているんだと思えて仕方ないわけです。
故の虚無。
無力感の極み。
不幸自慢したいのではなく、ただただ何もかもに、絶望することすら疲れている感じです。
ほらあの、漫画とかでよくあるじゃないですか、
試練とか使命についての自問みたいな流れで、
師匠ポジションの人が言うじゃないですか、
「お前はもう、その答えを見つけているはずだ」
ねえーーーーーーーよそんなもんどこにも。
答えがあるから俺が一番知りたいわどこにあるんだ答えはよ。
たぶん、依存症当事者の家族はその「答え」を見つけるために、家族会や断酒会、果ては専門家の講演や勉強会に足を運んだりしてるわけです。
依存症当事者が答えを求めてるかどうかは知らん。少なくとも今ぼくは家族側のことしか考えられんので、当事者は当事者でどうとでもしてくれ今のぼくはそんなこと考えたくもないしそんなこと知らん。
答えが出ない、
誰も教えてくれない、
答えがないから出口もない、
逃げりゃいいじゃんで済ませられる問題でもない。いや逃げる選択をした人もいるけど。
誰か助けてくれ、を家族はずっと叫んでおるんですよ、たぶん。知らんけど。少なくともぼくはそうです。助けてくれよ、助けられるもんなら。乗り越えられる試練なんだったらさっさと乗り越えさせてくれ、ぼくはもう疲れたよパトラッシュ。
疲れたから死ぬかーーーという気持ちもあるが、
死ぬ勇気も根性もなく、
死んだら葬式とか遺品整理(オタクは死ぬほど物が多い)とかで迷惑かけるし、
仕方がないので生きている。
依存症当事者以外の家族と、友人と、推しのために生きている。かろうじて。
しかし真っ暗も真っ暗な虚無の中で、
ぼくはどうしようもなく独りだと思う。
独りでかろうじて生きるための栄養を齧りながら、
こんなことしてなにになるってんだ。
どうしようもなくそう思いながら、生きている。
もう本当にどうでもいい。
何にも立ち向かいたくない、何にも向かい合いたくない。
依存症当事者のことなんか特に、考えたくもない。勝手にしてくれ。
またそのうち、「また来るで」と真っ暗の奥へ引っ込んでいく虚無を前に、
今のぼくはただぼんやりと座り込んでいる。体育座りで。
死ぬほど痩せたので、体育座りはおしりの骨が床に当たって痛い。
死ぬほど暗い話になったが、
吐き出す場所が、ここしかなかった。
誰もわかってくれないと、
ぼくの目の前の虚無が、そう言っているので。