嘘、というものについて
画像お借りしました。
素敵な写真が多くてありがてぇ……
さて。
嘘というものについて考える機会がありまして。
つまり「嘘をつかれた」と感じた機会がありまして。
嘘をつかぬ人間はいないとどこかで見たような聞いたような気が致しますし、確かにそうだろうとも思います。
嘘をつかれたら、当然のように腹が立ちます。
悲しい気持ちになります。
なぜそんな嘘をついたのか、と相手を責める気持ちになったり、
また、なぜ自分はそんな嘘をつかれたのかと傷つくこともあります。
「嘘」というものに触れた時、人というものは色んな感情がごちゃ混ぜになって、
ひどい時は何も手につかないくらい、その感情に囚われてしまうこともあります。
あの状態、なんて言えばいいんでしょうね。
苦しい、悲しい、腹が立つ、憎い、相手を責め立てたい、自分が悲しいことを伝えないといけない、なぜこんな気持ちにならないといけないのかと相手にぶつけないと気が済まない、自分がこんなに苦しくなるのにどうして嘘なんかついたのかひどいじゃないかと言ってやらないと。
まぁもう、どうしようもなく抑えられないドロドロとした感情が溢れて溢れて止まらない。
ぼくが恨みがましい性格なだけかもしれませんが、自分はかくの如く傷つき血を流しているのだという事実にがんじがらめになります。
相手が目の前にいようもんなら、それを全部自分から引きちぎって投げつけるくらいのことはするかもしれません。
怒りが、それくらい、抑えられない。
ぼくにとって「嘘」とは、それくらい、重い罪なんですね。
しかしちょっと待てと。
「嘘」にも種類があるわけで。
嘘をつくつもりでついた嘘。
そんなつもりは無かったけれど結果的にそうなってしまった嘘。
方便でついた嘘。
相手を傷つけないようにと、本当のことを隠したための嘘。
あとは、「勘違いで口にした」ことを「嘘をついた」と断定してしまうバグも起こりますね。
ここよく一緒くたにして怒る人もいますね。小さな子とか。
どの種類の嘘でも、
善悪の二択で考えれば、勿論嘘をついた本人が悪いということになりますが。
「嘘をつかれた側」が、「それを嘘だと認定した人」になっている可能性もあるのではと。
要は先程のバグも然り、こちらの誤解であったり決めつけであったりすることもあるわけで。
そういう考え方をしてると騙されやすいのかもしれないですけど。
「嘘をつかれた」→「信頼を裏切られた 」という構図によって、ぼくの中で傷ついたり怒ったりするのではと分析したりもしまして。
分析したところで腹は立つんですけども。
果たしてそれが本当に「嘘」だったとして、
その嘘によって本当に損害を受けるのは誰なのか。
信じていたのを裏切られた、というのも損害かもしれないですが、
どういう種類の嘘で、それが確かに相手を傷つける目的のものであるかを確かめる術かない以上、
もしかしたら一番キツいのは嘘ついた本人じゃないかしら、などとふと思ったわけです。
全人類がそうとは限らないけど、少なくともぼくは嘘が下手であるし、誤魔化すのも下手で、そういうことをしている間はとても居心地が悪いです。気持ちが落ち着かない。じゃあ、あんな嘘つくんじゃなかったと思うことの方が多いです、圧倒的に。
だから自分以外の人間ももしかしたらそうじゃないだろうか、と思って生きた方が楽な気がしました。
まぁ、腹は立つんですけど。
そんで今回は、
「明らかに嘘であると確認できない以上、腹を立てても意味が無い」「明らかに嘘だったとわかったら、その時に傷ついたと伝える」「その嘘(仮定)によって滞ったアレコレについては、別の手があるので損害とは考えない」「つきましてはこのように別の手を打ちます」
という旨をメモに書いて、落ち着くことに成功しました。
危うく怒りとわけわからん感情で一日を費やすところでした。
文字におこすと、人間は冷静になるらしい。
腹が立つことと、誰かを責めることを別にする。
もちろんその「誰か」には、ぼく自身も含まれている。
ちょっとずつその辺りを、調整中です。