『嵐が丘』を読んだ。
『嵐が丘』(原題:Wuthering Heights)はイギリスの小説家・エミリー・ブロンテによって書かれ、1847年に刊行された小説だ。
私は小説などの長い物語を読むのが苦手だ。だからこれまでに読んできた小説は多くはないし、『嵐が丘』についても名前は聞いたことがあるというくらいの知識しかなかった。本作を読もうと思ったきっかけは、自分が出演する演劇の戯曲(『少女仮面』作/唐十郎)にこの作品が登場していたからで、そういう機会がなければ読むことはなかったかもしれない。そしてなぜこうして文章を書いているのかと言えば、本作を読んで感銘を受けたからだ。なにが面白かったのか、自分のなかで整理するため『嵐が丘』について書いてみたい。
-あらすじ-
自称人間嫌いの男・ロックウッドは都会から田舎へ移住するために、ヨークシャの地で「スラッシュクロス」という屋敷を借りる。彼はその近辺に建つ屋敷「嵐が丘」に挨拶に訪ねるが、その主人であるヒースクリフや屋敷の住人たちの陰気な雰囲気に異様さを感じる。ある日、ロックウッドは道中で吹雪に見舞われてしまい、やむなく嵐が丘に一泊することになる。彼は自身が間借りした部屋で「キャサリン」という人物の書いた文章を発見し、それを読みふけるうち夢うつつにキャサリンの幻を見て、驚きのあまり大声を上げてしまう。その声を聞きつけ現れたヒースクリフは、ロックウッドに事情の説明を求めるが、そのさなかにキャサリンの名が出た途端、ヒースクリフは動揺し興奮した様子を見せる。後日、ロックウッドはスラッシュクロス屋敷の女中・ネリーがかつて嵐が丘に奉公していたことを知る。嵐が丘に興味を持ったロックウッドがネリーに話を聞かせるようせがむと、彼女はかつてヒースクリフ、そして嵐が丘とスラッシュクロス屋敷の間に起こった出来事を語りはじめる。
本作の中核はネリーが語る現在に至るまでの嵐が丘の顛末であり、その中心人物こそ、嵐が丘の現主人であるヒースクリフと、かつて嵐が丘を所有していたアーンショウ家の娘であるキャサリンだ。それを作中の現在、ロックウッドが聞き手となって、ネリーからその過去を聞く入れ子構造になっている。
かつて嵐が丘の所有者だったアーンショウ家の主人が、旅先で孤児だった少年を引き取り、彼にヒースクリフと名付けて自宅に住まわせたところからこの話は語られる。ヒースクリフは主人から厚遇され、その娘のキャサリンと家族同然に成長していき、やがて二人は傍目には恋と呼べるほど親しい関係となっていく。しかし彼らはアーンショウ家の主人の死や、自分たちを取り巻く状況の変化、自己のアイデンティティへの執着のなかですれ違っていき、その関係は互いに愛しながらも憎み憎まれるものに変貌していく。
ネリーによって物語られる内容は、ヒースクリフとキャサリンの愛憎劇だといえる。彼は、自身を愛していながらスラッシュクロス屋敷の主・エドガーと結婚したキャサリンを憎む。そして世界を憎んでいる。嵐が丘の主人の死後に自身を冷遇し下男に落としたキャサリンの兄・ヒンドリー、キャサリンを自分の許から奪ったエドガー、嵐が丘の建つ荒野、卑しい身分だった自分自身。そういったすべてのものへの憎しみは、自分にとって最も繋がりの強いキャサリンに集約され、彼女を呪うことを自身に強いる。
一方のキャサリンは、エドガーに求婚された際にもヒースクリフを愛していることを混乱交じりにネリーに訴えている。エドガーは家柄も人格も、またキャサリン自身の気持ちの上でもなんら問題のない、結婚相手として申し分ない人物だ。だがキャサリンは自分の気が変わったからヒースクリフからエドガーへ鞍替えしたのではない。彼女は激情的な性格ではあるが、自分が誰と結婚するのかという判断が周囲と自身にどんな影響を及ぼすのかを冷静に捉えている。彼女が苦しみ導き出した結論は、この時点でそれ以上ない判断であり、それは自身の打算だけとはいえないものだ。ヒースクリフに対する執着を持ったままエドガーと結婚し、その後も彼を愛しているような振る舞いを見せる彼女は、一見すると人を弄んでいるかのように映る。しかし少なくともキャサリンにとって愛は分配したり一方のみに集中させられるような定量的なものではない。彼女はヒースクリフと自身とが決して分離できない関係であることを承知の上で、それをしまい込みエドガーとの結婚を選んでいる。
彼らの愛憎を見ていて思ったのは、自分の肉体が辿ってきた物事、人、風景は、どれだけ自分の置かれた社会や状況が変わったとしても、容易には分かち難いということだ。ヒースクリフは事業に成功して自身の社会的地位が向上しても、かつて低い身分だった事実をあえて手放そうせず、上流階級の人間たちを憎み続ける。彼にとって紳士的な作法を身につけることや成り上がることは、自身の記憶を火に焚べて呪い続けるための手段でしかない。
かたやキャサリンは結婚した後に嵐が丘の建つ地に近づかなくなる。それは自身がしまい込んだ激情が立ち昇ってくることを恐れたからで、ヒースクリフや嵐が丘に対する情が消え去ったわけではないことを意味する。「ヒースクリフはあたし以上にあたし」という旨のキャサリンの台詞は、そうした自身が関わってきたものへの分かち難さを端的に表している。これを私は愛と呼ばれるものだと思う。そういった感情は、愛というひと言、というより言葉で説明しきれるものではなく、彼らの振る舞いによってとてつもないエネルギーを持ち読者に襲ってくる。
ヒースクリフとキャサリンが嵐が丘とスラッシュクロス屋敷で繰り広げた愛憎劇はあくまでネリーの視点から語られる過去の物語だ。小説の途中、語り手であるネリーは話を止めたり、聞き手であるロックウッドも途中でヨークシャから立ち去ったりして、それまでの流れが切られ、間が空くことがある。こうした小休止は、激情的な物語への没入から、いったん読者を解放してくれる。物語に潜り続けることは、私にとっては息ができず苦しくなるような感じがすることだ。しかしこうした現在の場面の存在は私に息継ぎをする間を与えてくれ、読み進めるうえで助けになっていた。
そしてこの入れ子構造は、単なる小休止に留まらず、物語の世界と読者を同期させるものでもあった。小説の後半、ネリーの昔話は終わる。キャサリンやエドガーをはじめ登場人物の多くは物語のなかで死んだ。だがヒースクリフは、キャサリンの娘であるキャシーや、ヒンドリーの息子ヘアトンを嵐が丘に住まわせて支配し、現在もなお生き続けている。ネリーが話した物語は現在に地続きで、まだ誰も語ることができない不確定の状態にある。ロックウッドはここに至り改めて嵐が丘を訪れる。この小説のはじめにもロックウッドは嵐が丘に住まう人々と会って言葉を交えているが、彼らに対して一方的に印象を抱くのみだった。しかし一度ネリーの体を通して物語られたことで、彼らはようやくロックウッドが出会い、対話することのできる他者になる。それは読者においても同様だ。ロックウッドと読者の間で同じ物語を聞いた体験が同期し、これまで物語の登場人物だった人々の実体が立ち現れる瞬間を共有する。そして私たちはいま起こっていることを目撃し、語ることができるようになる。
私はいままでフィクションを受容してきたなかで、登場人物とこれほどまでに気持ちが同期したり、誰かに出会ったと思った体験は無かったように思う。そして小説が、ここまで自己の存在を意識させられる媒体だとは知らなかった。物語を伝え聞くという体験を通してのみ、出会うことのできる人物がいる。結末についてはここでは書かないが、『嵐が丘』はフィクションの実在性をふと信じそうになる類稀な小説だった。
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