マリオのスタート地点とドブ板の帰り道
ゲーム『スーパーマリオブラザーズ』に設定された目的は時間内にゴールまでたどり着くことだ。
その目的を達成するまでの過程は、プレイヤーが狭められた選択のなかである程度自在に決めていくことができる。
先日、いろんな人たちと物事の「過程」について話す場面があった。
そこで「過程を積み重ねることはゲームと似ているかどうか」ということを問われて自分はとっさにマリオについての話をした。
あまり上手く例えられた気はしないし、むろん自分がビデオゲームすべてを代表した意見を言えるわけもないのだけれど、その時点で自分が考えていて、またマリオのイメージのしやすさもあってこの話をあげた。
『スーパーマリオブラザーズ』1-1ステージ
マリオが出会う最初の選択
マリオは毎ステージ、画面右横へ向かってゴールを目指す。
これが全8ワールド×4ステージ用意されている。
ステージの最後にはポールがあり、そこにマリオを到達させればステージクリア、各ワールドの最後では、クッパ大王の後ろにある斧をとるというクリア条件でやや事情が異なるが、それでもマリオをひたすら右に進めるというルールに変わりはない。
ゲームを進めるうえで有利になる『コイン』や『キノコ』を取りながら、ジャンプで敵を避けるか踏みつぶして進んでいく。
ワールド1-1の冒頭、まずここでプレイヤーはアイテムの隠された『?ブロック』と敵である『クリボー』に出会う。
ここでプレイヤーがとる選択はブロックを叩く、敵を踏み潰す、無視して進む、といったところだろう。これらはすべて無視できるし、全部やることもできる。
初めてプレイするかそうでないかで差は生まれるだろうが、ここでどんな行動をとるかでそのプレイヤーの性格がでると思っている。
さきほどの問いに対して自分は、「結果的に同じゴールにたどり着いたとしても、そういうことに面白みを見出せるのであれば過程は重要だと思うし、自分自身そういう風に感じている。」といったことを答えた。
ここではその場でのわかりやすさを優先してそれ以上あまり話さなかったのだが、『あとの時代では何を得られるかというより、ただ景色が違うからとかそれだけで別の選択をさせるゲームもある』というようなことも話した。それがゲーム『シェンムー』での帰り道の選択だ。
『シェンムー 一章 横須賀』は1986年の横須賀を舞台にしたゲーム。
(画像はPS4版『シェンムーⅠ&Ⅱ』)
https://shenmue1-2.sega.jp/
もちろん『シェンムー』はマリオとはまったく違うゲームで、選択をする部分もマリオとは似ていない。
マリオの選択は自分がミスを犯さないためだったり、早くゴールに辿りつきたいという部分が大きく、また次の道筋を見つけ出すためのものだ。対してシェンムーの選択はゲームの進行上大きな意味はなく、裏道を通るBルートの方が多少家路を急げる程度のものになっている。そもそもシェンムーでは一日の終わりに家に帰れなくてもゲームオーバーになりはせず、時間がせまると自動的に帰宅する。
しかしだからこそ過程について話すのであればシェンムーというゲームは適していると思っている。
なぜならこのゲームではメインの目的を追うことにあまり価値は見いだせないからだ。素早くクリアすること自体を否定するつもりはないが、このゲームの価値はある一定の期間にいかに寄り道ができるかにある。
メインストーリーの結末を迎えることはそれまでしてきた寄り道に区切をつけ、パッケージングするものだ。
自宅のある『山の瀬』地区へ続くふたつの帰り道。
それぞれ仮にAルート・Bルートとした。
AルートとBルートを分けて通るあるいは時間まで帰らない理由は曖昧でいずれも選べるが、ゲーム内の時間帯やゲームの進行状況といった要因がプレイヤーに影響を及ぼす。
Aルート側は道すがら遊べる部分が多い、賑やかな表通りだ。
とはいえ帰りが遅くなれば営業している店舗も減り、利用できる店舗は24時間営業のコンビニや、占い館、バーなどに限られる。
Bルートにはほとんど店はなく、暗い裏通りを通る。
こちらを選ぶとすれば、帰宅し早寝して翌日を迎えたい、神社にいるネコに早く会って世話をしたいとか、自宅に帰ることで家族を安心させたい(あるいは小言を言われたくない)といったところか。
それぞれのルートで通行人の様相も変わるため、そういった人々をストーキングすることもプレイヤーによっては選択する理由となるだろう。
ここであげた選択はあくまでも一例で、どういった道のりを経るか、何を目的とするか、そしてなによりも、どんなことをおもしろいと思うのか。すべてプレイヤーに委ねられている。この自由にはなんの報酬もない。
先ほどあげたように、このゲームはマリオとはかなり異なるゲームだが、大きく一致するものもある。
それはゲームをクリアするという大きな目的はあっても、その目的のためだけにゲームをするのではないということだ。
目の前にあった小さな選択を繰り返し、気づくと何かを達成したということになっている。
クッパ大王を倒せるから、ピーチ姫を救えるから、ゲームがクリアできるからマリオなのか。
マリオをしたいからマリオをする。ブロックを叩き、敵を踏みつけ、土管に入り、水中を泳ぐ。時にはミスがある。そんな過程をおもしろいと思う人間がいる。
そんなの、あたりまえじゃないか。なんだってそうだろう。と書いている本人でさえ思う。
目的までの手段が遊びであるなら、それを果たせそうな予感や、そこに到達するまでの手がかりをつかまえたときに昂ぶりを感じるのではないか。
いままさにこの文章を書いている自分は目的を見失い、どう結するかを決めあぐねている。この文章の全体は曖昧なものになり、そしてまた新しい文章を自分は書く。
ゲームの側はクリアしたことを証明してくれはする。そしてゲームに区切りをつけるのはプレイヤー自身だ。
それでもなお、そこにまだ何か見出せる余白があると思いこみ続ける限り、人は遊びのループを繰り返す。