平成の30年間は一言で云えば「アジア経済の主役」が日本から中国へと取って代わられた時代という感覚が体感的にもある。 町工場の集合体であるような我が町は家族経営の工場が多く、夜遅くまで機械を動かしている音が鳴り響き、値段交渉が厳しいながらも皆さん工場を運営していた。 職人上がりの社長さんも多く製造業ならではの真面目さをもった人が多かったように思う。 2008年北京オリンピック前後から体感的に中国製造業にコスト的に太刀打ち出来ないという声が多く聞かれ、工場を海外に移転した人
30年以上の借金返済生活の中でも「幸せを感じる瞬間」も勿論あった。 私を含めた4人の家族の出来事、 2人の子供達の成長を実感する瞬間などである。 常に仕事に纏わるお金の工面や段取りに付いて悩んでいる日々の中、長男の幼稚園の発表会にビデオ撮影に出かけた事があった。 5歳の長男の鼓笛隊の演奏を見に行ったのだ。 主役級ではないにしろ、小さな小太鼓を叩きながら5歳にも関わらず凛と前を向いて太鼓を叩きながら列をなし入場してきた息子の姿を見て鼻の奥がツンとしたのを覚えて
平成30年間の借金返済期間中、正直本当に苦しい時に飼い犬の紐を階段の手すりにかけ自殺しようとした事が数回あった。 引く話ではあるが当時は本当に苦しんでいたし、 人生に悲観していた。 自分の作った借金ではないし時代に踊らされた親二人の為に死ぬのもバカバカしい話ではあるが、私自身行き詰まっていたのかもしれない。 では、、、、何故前向きになれたのか? 当時私には小学校就業前の幼い二人の息子がいた。それに私の最大の理解者の嫁さん。 「バブル景気」に踊らされ
○平成 体感的に平成で世の中「人々のお付き合い」もシステマチックになった。 コンビニなどに代表される生活の購買も最小限の会話で済むようになり、余計な詮索や「煩わしい人間関係」も極力日々の生活で少なくて良いような社会生活が広まっていったように感じた。 父親を長とする家族構成から、人権やプライバシーを尊重する個人主義的な思考が広まり、 「人々の協力の下出来上がっている社会」を尊重する世相よりも、個人個人の主張を優先し、システムのもと知らず知らずの内に「消耗する歯車」
私的な意見ではあるが「昭和」「平成」「令和」人の心はどんな感じに移り変わったのであろうか?考えてみたい。 〇昭和 深く人々が繋がらなければ生活して行けない時代。葬儀ひとつを例にあげてみても町会の人々が協力し炊き出しして故人を皆で忍んでいた。もちろん私は幼少期でした。 皆一様に「貧しくとも、日々助け合い心は豊か」であったと思う。 下町の小さな会社自体も「金の卵」ととばれた中学校を卒業したての子供達を家族同然のように大切に扱い、時には厳しく仕事を教えていた。 不便
2008年9月のリーマンショック以降、体感的に不景気を感じる事となる。 「株式なんって他人事やろ」 と当時の私は思っていました。そこから町工場などは様々シャッターが降りたままとなり廃業した会社も多く出だした。 皆一様に「仕事が三分の一以下になった。」と言っていた。 日本代表ガラケーも「iphone」の登場とともに表舞台から去って行った。 ○2010年代 製造業中心のお客様が多い当店は、現場で働く人々の生活状況の変化や経営者側の工場の海外進出
個人的な視野ではあるが下町で生活する私が感じた平成30年間「借金返済期間」を考察してみると。。。 〇1990年代 下町「モノ作り中心の工場」を含め経済はある程度回っていたと思う。銀行や証券会社の大手などは倒産していたが、庶民感覚では「どうにか戻るやろ」的な感覚で80年代の好景気の雰囲気は残っていたし、情報はテレビ新聞が主で、 容易に「ブーム」なるものも作ることが出来、大衆心理はコントロールし易かったのではないか。 「たまごっち」なるものにプレミア価格が付き連
借金返済を始めた1991年当初、日本経済は今だバブル経済特有の 「楽観的空気」が漂っていた。 町工場の社長さん達も 「そのうち景気は戻るさ」と強気の発言が多かった。 町工場が乱立する下町で商いをしていた我が家は、日本の高度成長と ともに事業の方も順調に成長していき、店舗の設備も整えていった感じだ。 自分達の実力以上に世間の経済状態が良かったこともあり、 銀行に借入し、もっと商売を発展させようと考えた。 街中では 「500万で買ったゴルフ会員権
終戦後一年ほどたってから祖父は戦地である朝鮮半島から 帰ってきた。 その足で木の下に埋められた油紙に包まれた祖母の手紙を 見つけ、祖母の疎開した町までたどり着いた。 身ぐるみボロボロの状態で祖母の前に現れた。 そこから祖父祖母の極貧戦後生活が始まり「芋のつる」まで 食べて空腹を満たした。次の日の替えの下着が無いほど貧しか ったと祖母が言っていた。 このままでは乳飲み子の父を含め飢え死にしてしまうと、祖母が 漁師町の出身であったという事もあり、その町まで週十キロ
祖父祖母の人生はドラマチックである。 大正5年生まれの祖父は当時ガラス問屋御曹司として生まれたが3歳 の時に両親ともに亡くなり、番頭に店を乗っ取られ親戚中をたらい 回しになったという。 このガラス問屋は同時ロンドンで行われた万国博覧会にガラス細工 を展示したほどの会社であったそうだ。 私も実際の商品の写真を一度だけではあるが目にしたことがある。 大正15年生まれの祖母は「写真一枚」見せられ祖父と結婚する事 となり苦労を共にすることとなる。 やがて昭和20年
小商いの小さな和食店を営みながらでも「一億円」近い借金を 完済できたのは何故なのか今一度考えてみると、 ○大正生まれの祖母の金銭感覚を見ていた事 ○高校・大学の飲食業ではない他業種の友人たちの頑張りから 学んだ事 ○何より「内助の功の嫁さん力」 大正15年生まれの祖母はもちろん戦中戦後の貧しい時代を生き抜き 苦労しながらも祖父を支え、たった二人から曾孫7人も居る大家族へと 発展させた。 祖母は常日頃は爪に火をともすような質素な生活をし、お正月や孫のお
私は誰彼を責めているのではなく、 人は皆一様に自分の「主観」を信じて行動している。 しかし「人ひとりが見渡せる世界」なんて高が知れている。 商売然り、人生然り、 新聞 テレビ ネット 町会の噂 人の戯言 人様の主観を信じ切って、金利を入れれば 「一億円近い借り入れ」は 責任を取らされるのは自分であり、責任から逃げれば 家族の命が削られる。 生真面目という美化されすぎた思考停止な大衆の集まりで 戦争は起こり、悲しむ人々は現れる。
昭和20年生まれの父母は私が幼少の頃から喧嘩が絶えない 二人だった。 周りに人や子供が居ようが「自分の感情」が抑えられない 人達だった。 母親は特に幼少の私にも八つ当たりする人間で逆に言えば 気の小さな人である。 「お前なんか産むんじゃなかった!」とよく言われた。 何故か別に心は傷つかなかった。 借金返済中、銀行は2年に1回「返済条件」の見直しをする為に 店舗にやってきて「債務者・債権者」の関係で話し合いをする。 気の小さい二
我が家の借金返済期間は完済まで約35年ほど掛かった。 野球のイチローさんがオリックスで200本安打を達成し メジャーリーグを引退会見する当日まで払い続けた。 その間「時代は大きく変わり続け」社会常識も変化した。 人様から騙される事もなく「悪人」も出てこない。しかし 家族間では大きく揉めた。途中から料理屋で10年修行した 弟が嫁さんを娶り同居しだした。 「三所帯」同居である。 完全にイカれている発想である。 私の家族は今で言う「子供部屋おじさん・おばさん」的な 人
「もうどうにもならない」 というタイミングで借金込みの所帯を母親から渡された。 当時の私は小学生の息子二人に、人生の恩人ともいうべき 嫁さんの四人家族。 借金の残金5000万円。 土地も担保に入っていたので借金が払えなければ全てを失う 状態。 当時私は30歳代前半。マイナス思考ではないが年々不景気を 肌で感じていた。周りの飲食店もバタバタと閉店していた。 「俺は本当に借金を返していけるのか。。。」 考えないわけがない。 息子二人には大学に進学させてやりたいと
気がつけば親からの借金が「5000万円」身に降り掛かってきた。 父親が「時代に踊らされた悪友」の助言に従い 4000万+5000万円=9000万円 の借金をボウ地方銀行で平成4年に借りていた。5000万円は銀行 の勧めでカードローン。 「返さなくて良いから持っておいて下さい。」 と銀行融資部営業に言われたそうだ。主に土地購入費と店舗改装費だ。 平成2年当時はこのお金の借り方は普通であった。 もちろん令和4年の今は違法である。 昭和25年「引き上げ軍人の祖父」が始