【短編小説】作家と青年
「あの、セ、センセイ、少しよろしいですか」
意を決したような声に応じ振り返ったのは、この科目を担当する大学教員ではない。先程までの特別講義に登壇した著名な小説家である。学生たちよりもほんの僅かに大人びた顔立ちの、講義中も謙虚で温厚な態度を貫いていた年若き男。片付けは担当教員に任せ、プロジェクターとの接続を解除されたノートパソコンを鞄に仕舞い込むところだった。
「はい、どうしました」
作家は講義を受講していた黒いポロシャツの青年の姿を視界に入れて、にっこりと微笑んだ。背負わず左手に持ったままのリュックを一層強く握り締める。青年は最前列中央に座っていたため作家とは幾度となく目が合っていたが、改めて一対一の構図になってみるとやはり違った。しっかりと据えられた作家の視線を受け青年の顔が強張る。
「僕、実は作家志望でして、でもっ」
野次馬のような気持ちで受講したと思われる、講堂の中央から後方に座る大勢の学生の大半は、この会話に意識を向けることもなくこの部屋を去ろうとしていた。内容を認識できない喧騒を背景にして青年の言葉は続く。
「やっぱり、作家って特別な人しかできないんじゃないかって、先生みたいな凄い人じゃない、僕みたいな普通の人にはやっぱり無理なんじゃって────」
「そんなことありません」
ぎこちない笑みで自虐する青年の発言を遮るように、作家ははっきりとした口ぶりで言った。真剣な眼差しと力の籠もった言葉に青年の肩がびくりと揺れる。
「僕も凄い人なんかじゃない────そうですね」
そう言いながら、作家は教壇に置いていた鞄からビニール袋を取り出した。そこから出てきたのは、開封された様子のない薄い箱に入った包丁。
「僕はよく、包丁を買うんです。特に今日みたいな、作家という肩書があるからこそのお仕事の日」
────そんな。
青年は包丁を食い入るように見つめていた。右手には、腕が入る程度に口が開いたリュックから掴み出しかけた、刃が折りたたまれたナイフの柄がある。自分はこんなことをしているのだと示すための材料として、出す予定のものだった。
「日本には銃刀法がありますから、もし私が今日帰り道で職務質問を受け、鞄の中身を確認されたとして」
────まさか。
陶酔、畏怖、怯え、そのどれにも似たような表情で、作家は包丁を眺めている。伏し目がちな視線が包丁を何度も撫でる。
「流石に家での使用を目的とした包丁を購入し、それを運搬していると言えば法律違反にはなりませんが、それが高い頻度で為されていると知ったら、警察は僕のことを怪しむでしょう」
────『これ』があれば自分は何でもできてしまうのだと、思い込むための道具だった。
「これはいつでも僕の名誉を奪えるような代物なんです」
────僕は普通の人なんかじゃない、特別なんだということの、根拠にするようなもの。
「大層な肩書を貰ってはいるけれど、僕は特別な人なんかじゃない、驕る権利のない普通の人間なんだという────まあ、自戒の道具です」
作家は照れたように微笑んだ。青年は薄く開いた口から速い呼吸を繰り返している。
「こういう『危うさ』の象徴として刃物を持ち出すのは、流石にちょっと安易すぎたかなあとは思いましたがね、あはは」
────僕は安易なのか。
「だから、大丈夫です。君のことをよく知らないので断言はできませんが、特別な人間じゃなくても素晴らしい文章は書ける。誰だってそのポテンシャルはあるし、権利がある」
────違う、そういうことを聞きたかったんじゃない。
「僕も普通の人間ですから」
────自分も特別な人間だって、認めてほしかった。
「……あ、ありがとうございますっ、自信持てました」
青年の眉は八の字に歪み、愛想笑いにも似た絶妙な微笑を浮かべて頭を下げた。掴んでいたナイフの柄をリュックの中に落とし、開いたままのリュックの口を両手で掴んでその存在を隠蔽する。作家にナイフは見られていないようだった。
よく平静を保ったようにしていられたと思う。熱を帯びていた頭の芯がすっと冷えていく。
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相対していたのが自分だったら、きっと話の途中で逃げ出していただろう。
自分に自信が持てないのは嘘ではない。だが普通の人だと自称したのは本心ではない。心の奥ではそうであると認識しているけれど、これは「そうではないよ」という言葉を引き出すための道具だ。そのために『根拠』だって用意したのに。
たった一言、否定の言葉が聞きたかった。話しかけたときのあの、驕りと勝手な期待を滲ませた表情は、僕もしたことがあった。
あの作家がどうであれ。少なくとも僕と彼は、普通の人だった。
きっとあの青年は、僕なんかに代弁されたくないだろうが。
その後も講義と新作の感想でお茶を濁そうと苦心する青年に内心で驚嘆しつつ、作家に話しかけようと遠巻きに様子を窺う学生たちの輪をそっと抜ける。
鞄の内ポケットに潜ませていたあのカッターナイフは帰ったら捨てよう、そう思いながら。