【小説】全部君のせいだ



その胸元まで伸びた艶やかな黒髪は、有能な演出家の如く従順に靡いて周囲の人の視線を奪う。伏せた目を覆う長い睫毛は、瞬きと足並みを揃えて優雅に震える。大きな瞳の中には、瞼に載せたダークブラウンのアイシャドウの人工的な色彩では到底及ばない程に、吸い込まれそうなぐらい暗く黒い光が宿っていた。

彼女の視線が暫し虚空を彷徨った末に僕を貫く。にっこりと吊り上がるワインレッドの唇。


「……何、どうしたんだよ」


君の意図は何一つだって分からないのに、彼女が求めることを何でもしてあげたくなるような衝動だけは情熱的に燃え上がっていて。ぶっきらぼうな口調の裏に隠したはずの僕の炎まで、全部見透かして彼女は微笑むのだ。


「愛してる」
「……嘘なくせに」


きめ細やかな白い肌はいくら表情筋が動こうともその欠陥を露わにしない。手入れのされたチェリーピンクの爪が乗った細く華奢な指先が、そっと僕の肩に触れた。淫らな視線は口づけを促すように揺れて、僕はゆっくりと彼女の唇へ唇を重ね────ようとして。


「ふふ」


慈しむような嘲笑うような、酷く麗しい微笑を湛えて、彼女は子供の行為を諫めるように指で僕の唇に触れた。

嗚呼。またこれだ。こうなってしまえば僕に主導権は無い。彼女に従って暫しのお預けとしようにも、欲求が降り積もるのを我慢しているのは僕だけだ。駆け引きなんてものには程遠い。それは対等な関係性の中で行われるものであって、ただ僕が翻弄されるだけの関係で行う駆け引きなんて彼女にとっては遊戯でしかないだろう。

手を払って強引に彼女へキスをしようとするのはもっと悪手だ。彼女の瞳に潜んでいた光は消え去り、情欲の赴くままに口づけをしようがその先の行為へ及ぼうが、目があったはずの場所はただの2つの孔となってひたすらに虚空を向く。肉と肉を打ち付ける音も淫靡な水音も荒く乱れる呼吸も、そこにある音に彼女の気配は一切含まれない。軽蔑や憎悪の視線すら受けることを許されない。

ただ────その無感情に空を仰ぐ人形のような目に、惨めな僕へそうして構わないと判断した彼女の目に、たまらなく劣情を抱いてしまうこともまた事実だった。


『────次は、有楽町、有楽町────』


次に扉が開く場所が乗換駅か確認するために意識のリソースをそちらへ割いたせいで、妄想の世界が一瞬乱れる。緑色にペイントされた鉄の塊が一際大きく揺れたものの、内部に押し込められた有象無象の人々のバランスを崩すほどのパワーとはいかなかった。スーツの群れと意味を生まない接触をし続けながら、誰が触ったのかも分からぬ吊革をぼんやりと握る。携帯を弄んで社会と接続する気力は既に無く、ただ車窓を彩る夜の賑わいを視界に入れつつ、彼女との甘美なひと時に興じるしかなかった。

環状線に身を任せてどこまでも廻り続けてしまいたい気持ちを奥底に留めながら、その疲労感を掻き消すように彼女を想う。終わりのない彼女との一夜はどんなに翻弄されようとも、どんなに理想とは程遠いものだとしても、この単調で凡庸な日々を忘れ去れる魔力のようなものがあった。愛とは素晴らしいものだ。一秒でも彼女の姿を思い出すだけで胸は純朴な学生時代の頃のように高鳴る。たとえ僕が脳だけで築いた僕だけの楽園でも、その時間は莫大な効果をもたらした。

彼女は今、何をしてるんだろう。まさか他の男と、なんて思考が脳裏を掠めた。君の心を知る試みはどれだけ長く彼女を見ていようがさっぱりだ。何者にも侵されない強固なセキュリティには解除の取っ掛かりなどなかった。その唇は囁く愛の言葉さえ道具に変えてしまう。けれどその挑発的なようにも見える視線が今向けられているのが僕であれば、全てどうでもよくなってしまうから仕方ないのだ。僕が本命でもキープでも構わない。ただ君が僕を見ている時間があればいい。


嗚呼、僕だけに夢中にさせたい。その瞳を、その肌を、その身体を、その心を、全て僕のものにしたい。嘘じゃない愛の言葉を聴きたい。君の声で、僕へ、言葉が欲しい。


『────次は、東京、東京────』


抑圧されたリビドーの行き先を持て余しつつ、僅かに熱っぽい息を吐く。入れ替わりが激しい割に車内では身動きが取れない状態が続いていた。車窓に映り込む冴えない黒のビジネススーツは、冴えない僕の黒髪に驚くほど似合っていた。

凛とした佇まいが、鼻筋の通った横顔が、ジャケットに覆われた華奢な肩が、ワイシャツを持ち上げる豊満な胸が、タイトスカートから伸びる細い脚が、彼女から香る柔軟剤のチュベローズの匂いが、初めて彼女を見たときの物憂げな瞳が、どれも記憶に焼き付いて離れない。


会いたい。触れたい。せめてその声が聴きたい。

僕の名を呼んでほしい。君の名を呼びたい。


多くを求めすぎというのなら、せめて。
君の声を知りたい。
君の名前を、知りたい。


それだけでいい。それだけで、構わないから。


『────次は、神田、神田────』


はっきりとした発音のアナウンスが虚空へ溶けていく。
職場付近の交差点で通勤中にいつもすれ違うだけの彼女をここまで一途に想えるのは、やっぱりこれが真の愛だからこそなんじゃないかと思いながら、流星のように遠ざかる街のネオンを見ていた。


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