【小説】未確認プランクトン (remake)
「おはようございまーす」
「おはざーす」
「あ、おはざいまーす!ちょうどよかった先輩、ちょっとここなんすけど」
役者にとって「おはよう」は、朝だけ言える特別な言葉ではない。
「ん?どした」
時刻は午後四時。冬ならば半分日が沈んでいるような時間。おはようは、太陽の歩みと同じ方向へ階段を下りて、地下へ潜り劇団の練習場の扉を開けたその瞬間、いつの時間でも言える挨拶だ。練習場の『朝』はいつだって、中天で煌々とLEDが灯り続けていた。
「ここの台詞のところ、この照明の演出を意識して────」
指差した台本の三分の一のところを分かつ横線のすぐ上、赤い印は『カラフ』の文字を彩っている。青年がこの劇団に入ったのは去年だった。幾度となく握られたであろう、歪な輪郭を描く紙束になんともいえぬ感情を抱きつつ、性能の悪い頭から演出計画を呼び起こす。
名作オペラを役名はそのままに現代風に改変した演劇は、元となったオペラの知名度と新進気鋭の若手俳優と名高いこの青年のおかげで、まあそこそこの興行収入を見込まれている。そこそこと表現したのは見栄だ。弱小劇団に『そこそこ』なんて言う余裕はない。おかげさまで、よほどの出費をしなければ劇団の寿命が数年延びるらしい。
徹底的な実力主義を標榜していたかつてのプライドはどこへ行ったと思うくらい、今の劇団は彼のネームバリューにおんぶにだっこだった。彼が誰よりも努力をしているのも、それに裏打ちされた圧倒的な実力があるのも事実だし、実力主義だから在籍年数の長い俺が永遠に端役をやっているのだけれど。
「ここはちょっと上手側の光が絞られるから、そうだな…………」
真剣に俺の話を聞く恐ろしく均整がとれた横顔に、そりゃオーディションでも目を惹くよな、なんて理由付けをしたくなってしまう。運も実力のうちだ。そんなものはただの僻みでしかない。どっちにしろ、この青年が俺と同じ顔をしていたところで、この演技力なら大抵の役は勝ち取れるだろう。
そんな意味もないことを考える必要はないんだ。ただ俺が一人、優しく首を絞められるような気持ちになるだけなんだから。
「直前で若干抑え気味にしておいて、このタイミングで膨らませて────」
俺、なんでこの子の先輩面してアドバイスなんかしてんだろうな。そろそろ座長任せられそうな人間に、将来有望な人間に、こんな落ちこぼれの言葉が必要なのか?
「まあ、お前ならすぐできるよ」
俺はできるまでどのぐらいかかっただろう。
*
汗が目立たないから、と思って買った白のTシャツの英字はすっかり褪せている。何年も同じ地下の暗闇で俺の汗を吸ってきたそれは、今日もいつも通りその職務を全うしてくれていた。
「あー、えっとね、そこの王子の台詞、もっと気品溢れる感じがいいんだけど」
「はい!すいません!」
今日だけで十回は俺の箇所に注文が入った。座長のコネで有名な演出家が来ると言っていたから覚悟はできていたけれど、実際にそれを体験するのは想定の中のそれの比ではない。過剰ではないかと自分で不安になるぐらいの想定をして、その上で圧倒的な現実が上回ってくる経験は、人生の中で数えきれない程にある。一切合切がダメになって死にたくなる季節はとうに過ぎていた。
ちゃんと生きる覚悟もないのに、死ぬ勇気すらもない。多分、演技の才能もない。どうしようもなく、そのどうしようもなさに気付いていた。
俺はもう、二十九年生きていた。
まだ第一幕。主演はまだ、一言も喋っていない。俺が、俺だけが、ひたすらに同じ言葉を紡ぐ。
俺に降る周囲の視線が次第に鋭利になっていく。棘が抜けないまま俺だけの稽古が続く。あれほど覚えて咀嚼して、自分なりに人格を創り上げた台詞が上滑りしていくのがわかる。役職を名前の代用とされた男の、ほぼ最初で最後の見せ場が延々と繰り返される。
早くシーンを先へ進めなきゃ、
こんな著名の方がいらしていて俺だけに指導する時間を使うのはあまりにも勿体無いだろ、
もっと、
指示に従って、
あー、
なんだっけか、
そう、
気品溢れる、
演技を。
「うーん、そうじゃないんだよなあ」
演技を。
*
何も考えられない。考える暇などない。もうだめかもという思考すら浮かばせないように、ひたすら予定を詰め込んでいた。毎週毎週、稽古、コンビニの夜勤バイト、稽古、コンビニのバイト、居酒屋のバイト、稽古、警備員の夜勤バイト、単発のバイト、稽古。それらの僅かな隙間に粘土を詰め込んだような食事と睡眠。そんな日々で思考は既に濁りきっていて、その泥のような濁りが正常だった。現代社会の枠を抜けて何者かになる時間より、否応なしに社会に溶け込まなければならない時間の方が長かった。
だからこそ今日の稽古だって、ほんの60%の精神的疲弊がたった80%になったにすぎないのだ。まあ多少心は淀んでいくけれど、その淀みがいつ消え去るかなんてわからないけれど、きっとまだやっていける。やっていけると思う。俺はずっとそう思っている。断言は、できない。
耳元で流れる流行りの曲の歌詞があまりにも漠然とした希望を謳いすぎていて、二番のAメロでスキップした。声の若さに裏付けられた鮮烈な未来絵図が眩しかった。これが流行ってるなら悪くない社会かもなと思った。音楽再生アプリの無料プランでは限界のあるスキップ回数の、多分最後の一回だった。
大人とは何だったのかわからないまま、幼い頃から憧れていた若き大人の時代が終わろうとしている。投げ込まれた海で一人だけ泳ぎ方を知らないままもがいている。不確実で上手くもない泳ぎ方で頑張って前に進もうとしている。この泳ぎ方を選び取って、長く頑張っていることそれ自体が、凄いのだと信じている。
凄いと信じているのではなく、凄いのだ。それが事実だ。そうじゃないか。そうなんじゃないのか。
青信号が点滅している。少し歩く速度を上げて、車も人もまばらな街の横断歩道を駆け抜ける。朝靄の中で帰路を急ぐ行為が、あまりにも虚しい。幼少期にドハマりした漫画のキャラクターのプリントTシャツが、安いファッションブランドとのノスタルジーなコラボアイテムとして店頭に並んでいた。
努力の仕方を、間違ってはいないか。
その問いにずっと、聞かないふりをしていた。
ぶつからないのが逃げならば、俺は挑戦し続けてきた。
その壁を壊すため、何度も真正面からぶち当たってきたのだ。
だから、その壁が壊れることがなくても。
誰か、誰か。
──────誰か俺を、認めてくれないか。
その叫びを頭で言語化してしまった時、ああ、今、海の中で足をつったなあ、と思った。
溺れていく。
この泳ぎ方じゃ、もう息が吸えないのかもしれない。
*
「おはようございます、すみません先日は」
「あー大丈夫だった!?倒れたって聞いて心配したよ」
「すいませんご迷惑おかけして……ただの過労ですんで」
体裁だけの浮遊感を持つのは周囲の声なのか、はたまた俺の声なのか。実力主義なんて馬鹿馬鹿しい。それが素だというなら、ここにいる全員、あまりにも演技が下手だった。
変えたかった。変わりたかった。多感な大学生と同じようなことを思っている。若さも青さも拭い切れない。どうすれば大人になれるのか、『ちゃんとした人』にはどうすれば届くのか、漠然と年を重ねてきた俺には、全くわからないままだった。
「体調管理も役者の仕事のうちだから」
それじゃあ、今しかないんじゃないか。
新しい選択肢をはっきりと見つけたら何も考えず挑もうとしてしまう癖すら、熟れていない果実のままだった。
*
「あーそうだ、あの、私情で申し訳ないんですけど……俺この舞台終わったら、役者辞めようと思ってて」
全体打ち合わせが終わった段階でそっと手を挙げる。このタイミングで話をすることは、座長から許可を取っていた。噂を聞いていた者、今初めて聞いた者。納得、驚愕、無関心。様々な状況にある劇団員たちにさざ波が走る。
思えばここは、海と呼ぶにはあまりにも狭く浅いものだった。大海でなければ井戸でもなく、そこですら俺は溺れていた。
「この舞台までですが、初演まであと2週間、頑張りましょう」
利害関係が発生する相手には全て話をつけた。久々に纏わりつく視線に棘がなかった。話が終わる頃にはもう、憐れみと同情という気色の悪い痛みだけが残っていた。
「……辞めちゃうんすか?」
後輩の青年が一人だけ散会せず留まり、俺の方へ声をかけてきた。稽古が始まるごく僅かな時間を利用した意思表示。なんとまあ、行動が早い。この早さが愛される理由なのだろう。丸く大きな黒目は、一度見据えられれば蔑ろにできない光がある。
「うん」
「……なんで……」
わかってんだろ、お前なら。
お前のその実力なら、審美眼なら。
「足りなかったんだよ。何もかも」
お前の光には到底届かなかったんだ。なんでその泳ぎ方ですいすい泳げていけるんだ。
羨ましい。遠い。
青年の同世代を周回遅れにするどころか、同世代から周回遅れの俺も一緒に追い越して、どこか遠くへ泳ぎ去っていく。
「そんなこと……!あの、俺、先輩の視野の広さ、尊敬してたんすよ」
お前がそういうことを言うと、演技だか本心なのかさっぱり分からないのが困る。本当に演技が上手い男だ。悔しいぐらいに、綻びが見えない。もしかしたら心からの言葉なのかと淡い期待を寄せてしまうぐらいに。こんなものお世辞だって、社交辞令だって、わかっているのに。
「先輩だけっすよ、あんな最初から演出とか舞台装置とかを活かせるの」
演技が上手いとは一言も言わない。目の付け所が違うから、俺をよく見ているから、その賞賛と暗黙の否定は両立する。
ああ違った、これは演技だった。わかってるんだ。
悔しいことに、信じたいと思ってしまう。
もうこの海から上がるって、そう決めたのに。
「だから、だからもっと、先輩と一緒に演りたかったのに」
なあ、どうしてそんな顔ができるんだ。どうして。
「…………ごめんな」
その顔は銀幕の下で見せてもらわないと。
俺だけに見せるものにするには、勿体無さすぎるだろう。
お前の存在は、一挙手一投足全てがもう、ちゃんと価値のある売り物なのに。
「俺の代わりにっていうのはあれだけどさ、アカデミー賞とか、取ってきてよ、な」
どこまでが彼の本心で、どこまでが俺の本心なのだろう。
良い後輩を演じているのだろうか。良い先輩を演じているのだろうか。
「お前がでっかくなったら、俺も誇らしいからさ」
どちらでも構わないから、演技でも慕う素振りをしてくれたお前の前ぐらいでは、良い先輩のままでいたいと思った。
「まあ、お前ならすぐできるよ」
俺は「良い先輩」ができているだろうか。
*
この部屋で長時間過ごすのはいつぶりだろうか。電灯のスイッチの位置を忘れ、僅かな記憶を手繰り寄せて壁を叩いた。三度目の正直。久々の仕事を手を叩いて喜ぶように、少しの瞬きを経て部屋が照らされる。
詰め込んだバイトを辞めた。もうわざわざ選んで夜勤の仕事をする必要はなかった。正社員でも昼のバイトでも、やれる幅は広がるのだ。現実逃避に不必要なレベルまで働いたおかげで、仕事がしばらく見つからなくても、二ヵ月程度なら一切仕事をしなくても持つぐらいの貯金はある。
解放感に満ち溢れるのを期待していたけれど、心臓に優しく触れられたような弱弱しい切迫感だけがある。何一つ確信の持てる正しさがない。いつだって俺はそうだったなと思い直す。ただ、呼吸だけが覚束ないだけ。
これで良かったのか。
これは、逃げか。諦めか。それとも、戦略的で理性的な撤退か。
あれだけはっきりと決断したのにすぐ迷うとは、意志薄弱にも程がある。
この時間に寝るのも久々だなあと思いながら、散らかったベッドに身体を横たえた。劇場のシャワーで温めたはずのつま先が、陶器のような冷たさを孕んでいる。瞑った瞼の裏に、カーテンコールの終盤、大勢のうちの一人として、列の端で頭を下げた時に浴びた、強いハロゲンの光が浮かんだ。千秋楽とはいえ、あれほど沢山の拍手を受けたのは初めてだった。カラフ役のあいつからの餞だと思えば、悪い気はしなかった。
*
脳全体に靄がかかっている。起きてすぐは頭部が持つ重みに耐えるのに身体が慣れていなくて、首の座らない赤子のような妙なふらつきを実感しながら立ち上がる。
今日はバイトと稽古────は、無いんだったな。そうか。辞めたんだ。
自分の手で捨て去ったそれらは、昨日の今日でもう既に妙な懐かしさを覚える。あの苦しみにすら愛おしさを感じる。喉元過ぎればなんとやらだ。
今の俺にはもう何もない。何一つ持ってはいない。全て開いた指の先から零れ落ちた。所詮そんなものだった。指を閉じ続ける意地とも呼ぶべき貪欲な感情は、俺が掴むには頼りない藁だった。
採光のためにカーテンを開ける。日課である作業だ。昨日までも、昼間のほとんどを睡眠時間に費やしていても十四時頃には起きていなければ間に合わなかった。両手で灰色の布を掴み、勢いよく腕が届くところまで端へ押し付け──────
「──────ぅわっ」
掴んでいたカーテンを反射的に閉めた。閃光、ストロボ、あるいは舞台上の光を直視したような状態。予期せぬ攻撃に、網膜に残った光の欠片がちかちかと明滅する。内側の薄いカーテンだけを残してグレーを左右へ押しのけると、白の幕の奥、中天に太陽が昇っていた。
なんで、いつもは全然眩しくないのに。
この窓は東向きだから昼間は良い感じに直射日光が入らなくて────東向き?
慌ててテレビを付ける。少しのタイムラグのあと、淡い暖色で統一されたスタジオが映し出された。その元気さをほんのちょっとでも分けてほしいぐらいの活気。
『おはようございまーす!』
コーナー担当のアナウンサーが快活にスタジオに現れる。左上の時刻は朝七時過ぎを示していた。学生時代に毎朝見ていたテレビ番組の、全く知らないコーナーが始まる。
ああ、なんだ。
朝か。
朝。この部屋で、起きて朝を迎えたことはあっただろうか。
ここ数年、朝起きたことは、あっただろうか。
朝日を浴びたことは、この部屋で太陽を見たことは、あっただろうか。
「朝かー…………」
その事実を、擦り切れるぐらいに反芻する。
何も持っていないと思っていた。
何一つ残っていないと、思っていた。
こんなに眩しくて暖かいものなど、無いと思っていた。
台詞なんて要らなかった。
本心と嗚咽で十分だった。
千秋楽の終わりに、やっと俺はその名前を知った。
「主演、演ってみたかったなぁ…………!」
その強い光は、床に垂れる雫ごと、俺一人だけを照らしていた。