【小説】融解 (remake)

4年ほど前にTwitterに掲載した小説のリメイク作品となります。


丑三つ時は幽霊が現れるという言い伝えは広く浸透したが、その脅し文句にきちんと怯えられる時期もとうに過ぎていた。夜更かしどころか、耐えられないと思っていた徹夜すら、気付けば何らかの課題をこなすための選択肢として常に存在している。酒と煙草と、付随するいくつかのサブカルチャーなアイテムと共に、時にオールと名前を変えながら大学生の生活の中にある。時刻はちょうど午前二時。まだあと数時間は「今日」にしてもいい。
怠惰な一日を過ごした締めに、行くところまで行って怠惰っぷりを加速させてやろうと夜の街をあてもなく彷徨っていたら、気付けば近所の小さな墓地に来ていた。

こんな時間に成人したての若い女が一人で彷徨うのは、このご時世自殺行為とも思われかねないが、悲しいかな都内といえども下町の一画。不審者すら見かけないほどの過疎地である。不審者がいたところで、襲われようが殺されようがどうでもよかった。あくまでこれは、何も起こらないだろうという楽観視と厭世的な思考が混ぜ合わさった結果のものであって、実際何か起これば必死に抵抗するだろうし、死にたくないと思うのだろう。若さ故の傲慢と自暴自棄的な態度を、自覚しつつも止められない。

砂利をサンダルの裏で噛み締めながら進む。居るはずの人の気配が窺えない住宅街の中に、墓石たちがひっそりと佇んでいた。ある意味では、死人の気配の方がよく感じられるような気がする。また随分と賑やかな場所に来たものだ。
終電も終バスもとっくに行ってしまった。もう少し時間が早ければ家庭の明かりの残り香を感じられたのかもしれないが、この時間になるともう大半の人が夢の中だろう。生活リズムが壊れた人間と、生活なんてものがなくなってしまった人間ばかりが残されている。
見上げれば満月と、ぽつりぽつりと浮かぶ一等星。今日は天気がいい。都内のくせに、星が数えられるぐらい見える。

しんと静まる墓地の中、梅雨と夏の狭間にある今の時期にぴったりな、まだ辛うじて薄ら寒いままの真夜中の空気を全身に感じたいところだが、生憎アルコールを摂取してしまっていた。暖炉に小さな火が灯されたような、内から身体の輪郭へ広がるじんわりとした温もり。夜風では醒ませられないぼんやりとした思考回路。開き切らない瞼の隙間で、視界のピントが僅かに合わないまま歩を進めている。踏み下ろした足元から、小石が規則正しく小気味良い音を立てる。まだ辛うじてものは考えられるが、この鳴き方をする虫の名前は出てこない。

一つの新品そうな墓の前で足を止めた。まだ活き活きとしているお供え物の生花たちを一瞥し、忘れられてないんだなあなんてぼんやりと思う。それをよいこととするべきかわからない。
見知った友人の、やっと見慣れた寝具に彫られた、未だ耳馴染みの無い新しい名前を指でそっと撫でた。彼女は少し体温が高かったはずだが、今は驚くほど冷たい。酒がくれた指先の熱が、急速に奪われていく。

しゃがみこんで墓を見上げ、かつての彼女の名にあった漢字を見つめながら、左手に持つ飲みかけの缶チューハイを一口煽る。有名なアルコール度数の高いやつ、のロング缶。レモンの味が熱へと変わり、喉へ流れ込んでいく。誕生日を迎えたのはいつだったか。飲まないとやってられんと言い出したのはいつだったか。あーあ、飲むと色んなものが曖昧になる。

真夜中の散歩は元から半分趣味のようなものだったし、墓地を訪れることも無くはなかったが、二年前に友人がここの住人と化してからはこの墓の前が定番ルートの一つになっていた。毎晩散歩に出る訳ではなく、毎回ここに来る訳でもない。ただ来たいときに訪れるだけ。酒を飲んで、丑三つ時にここへ来て、頭の中で過去の記憶を繰り返すだけ。

私と出かける予定だったある休日に、財布を忘れたと言って一旦帰宅し、冗談交じりに急かす私が待つ駅前へ再度向かったその道中の話だった。現代の驚嘆すべきテクノロジーは、便利な移動手段は、使い方次第でいくらでも殺戮兵器と成り得る。高速で走る鉄の塊は、脆弱な人間の肉体には暴力的すぎたのだ。

誰にも見られない一方的なメッセージと、受話されない電話が連なる履歴と、待ち人の来ない昼過ぎの駅前の景色を覚えている。全てがその場を去った後、何も知らず訪れた道路の上に残る痕跡を目にして、覚束ない足取りで帰ったことを覚えている。

翌日教室の机に飾られていた菊は、彼女に似て酷く真っ白な姿で、凛と咲いていた。

「馬鹿だよ、ほんと」

忘れ物をしていなければ。
わざわざ取りに戻らなければ。
待ち合わせする場所が違えば。
待ち合わせの時間が違えば。
待ち合わせの日が違えば。

私が急かさなければ。

全ての要因が重なり合って、ひとつの運命が導かれる。導かれてしまう。

「馬鹿なんだよ、私たち」

丑三つ時に幽霊が現れる訳がないのだ。
だって、そうなら私は、とっくに貴女を見ている。
わかっているけれど、それでもまだ、微かな希望を拭い去れないままでいる。

後悔をうわ言のように唱え続ける行為の生産性の無さも、この自罰的な思考が自己満足以上の何物でもないことも、全部わかっているのだ。でもそうせざるを得ないのだ。自己満足でいい。そうしなければ自分が耐えられない。
自罰的な思考で穴を埋めるのが間違いだとして、じゃあ彼女との記憶を思い出そうとするたび広がるそれを、一体何で埋めればいいのだろう。何をすれば、この虚しさと正しく決別できるのだろう。空虚と一生を共にするなんて、そんな酷なことが正しい筈がないのだ。誰もがそれを成せると想定されているなら、人の精神を強く見積もりすぎている。

後を追うなんて短絡的で馬鹿げた進路も、当時の私には考えが及ばなかった。ただ目の前に突きつけられた事実を、呆然とただ口を開けて見ていることしかできなかった。

地毛だと言い張れる程度に焦げ茶に染めていた髪を、黒に戻した。
髪を伸ばして、慣れないサイドテールを練習し始めた。
今まで以上に紫外線を気にし始めた。
言葉遣いを変えて、なるべく穏やかで落ち着いた振る舞いをするようになった。

一般じゃ到底入れそうにない志望大学の、推薦入試のために体裁を整えただけだと笑ったが、かなりの人には悟られているだろう。誰も何も言わなかった。彼女を生かし続ける方法を、他に知らなかった。何も考えていなかった私を生かすより、未来のことを考えていた彼女を生かす方が、圧倒的にマシだと思った。

チューハイを一口。

彼女が語る未来の、ここから先を知らない。

強い風が吹いた。風になびく彼女の美しく長い黒髪を思い出した。
酒が見せた幻覚でもいいから、この先の未来を教えに来てくれと思った。

彼女の行きたいゼミを知らない。入りたいサークルを知らない。
やりたいアルバイトも、気になる選択科目も、卒論でやりたい研究内容も知らない。

私たちは、なんだかんだずっと一緒にいるのだろうと思っていた。高校を卒業して、頑張って同じ大学に行って、もし同じところに行けなくても定期的にどこか遊びに行くぐらいはして、職場はわからないけれど頻繁に会うのだろう。言葉にはしなかったけれど、互いにそう思っていた筈だ。きっと、私たちは、あの日までは。

彼女と過ごすはずだった大学のキャンパスを、私だけが隅々まで知っている。彼女の志望学部と志望学科がよく使う棟と教室群と、必修授業を担当する教師陣の顔と名前を、私だけがよく覚えている。忘れたくはないと思っていた高校の日々が、次第にゆっくりと薄れ始める。いつか競っていた背丈は、気付けばその六分の一にも満たない大きさになって小さな壺に閉じ込められている。

前に向かって歩きながら、ずっと後ろを見ている。

怖い。
もうこの先、何を指針として生活すべきなのかわからない。私の中に彼女を遺そうとしていたのに、創り上げた「彼女」の隙間が徐々に広がって、「私」が姿を表し始めているのが怖い。

彼女がいなくなったことを、とっくに理解してしまっているのが怖い。もう戻れない過去の中にいる、届かない者として扱ってしまっているのが怖い。この記憶が緩やかに失われて、私の中の彼女が少しずつ消えてしまうのが怖い。今こうやって固執し続けているのが、最早誰の何の為なのかわからなくなってきたことが怖い。

貴女は私を、笑うだろうか。悲しむだろうか。呆れるだろうか。沈黙を貫かれる以外のことであれば、何でもよかった。

馬鹿なのは私だ。
貴女よりもずっとずっと。

最初からわかっている。
彼女は私にとって、唯一無二だったから。

チューハイは残り僅かなところまで減っていた。
もう彼女はこんな生活をしないことなんて、分かりきっていた。

さて、そろそろ帰ろうか。今日もかなり飲んだ。二日酔いにならないうちに止めておかないと。立ち上がりざまに少しふらつく。世界のピントはさっきよりももう少しだけ合わない。

家に帰ったらすぐに寝る支度をしよう。そしてこの夜が明けるまで、死んだように眠ろう。夢に出てくる余地すら与えないで、ただこの一時は貴女と同じように眠ろう。
これで最後でもいいから、せめてそれだけはまだ、同じなままでいさせてほしい。

見上げた都心の一等星は、独り瞬いている。


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