【エッセイ】そして均衡は保たれる(2/3)
1/3はこちら↓
雨天へ奏でるセレナーデ
怒りの日
ある秋の日である。メガネ君は、社内の食堂で静かに座る。ぼんやりと窓の外を眺めていた。夕方から雨が降り、時刻は既に午後八時過ぎ。暗い窓では、新たに水滴が生まれては下に流れていく。長らく窓を見過ぎた彼は、その水滴から、生命の誕生と死滅にまで思いを馳せていた。座して壮大である。そこへ私が到着した。
「すまん。遅くなった」
「座しすぎて尻痛し。雨を眺め二時間が経つ」
「午後から雨予報ってのは知ってたけど」
「相変わらず傘を持ってこない性分ですな」
「大丈夫。君という傘がいるじゃないか」
「遺憾千万」
メガネ君は、私の退勤を待ってくれていた。彼の忍耐は、逞しいことこの上ない。
私は彼を待たせた。理由は一つ。傘を持たない性分だが、私は雨に濡れたくないのだ。一方、メガネ君は、常日頃から折り畳み傘を携帯している。雨に出会えば、いつ何時も彼の善行に肖る。
「───あ、メガネ君。今日傘無いから、私の退勤を待って欲しい」
彼はそのたった一言に頷いただけであった。故の二時間待機。親切心が自我を超えている。逆の立場であれば、私は潔く約束を破っていただろう。
私は断固として傘を持たない。例え、暗雲が低く垂れ込んでいようと、遠くから雷鳴が聞こえようと、降水確率が100%であろうと、家を出る時に雨が降っていなければ、雨具は無用の長物である。
今朝はただの曇天。しからば、今現在、目の前で土砂降りが行く手を阻んでいようとも、私の判断に間違いはなかったと胸を張って言える。
「急ごう。ねくら氏が待っている」
「そうだね。どれくらい待たせただろう」
「彼女は私より早く仕事を終えたので、恐らく二時間以上……」
「貴様ら二人であみんになれるな」
今日、我々三人は馴染みの居酒屋で集まることなっていた。ねくら氏は先にお店へ向かったとのことだった。私は、メガネ君と一つ傘の下、出来る限り早足で、降り注ぐ雨を突き進む。ねくら氏の待つ場所を目指して。
私と雨は須く相性が悪いが、雨音は好きである。傘が水を弾く音、濡れた地面や浅い水たまりを踏む音、通り過ぎる自転車や乗用車が雨天を進む音。ハーモニーとは言えないが、無骨な自然音の重なりは、気分を高揚させる。私はメガネ君の隣で鼻歌を披露し、小さなスキップも加えた。
「むっ。一つ傘の下。そんな事すれば、お互い雨の餌食ですぞ。それに不謹慎ではないか。こんなにも待たせているというのに」
「足さえ動かしてれば文句はないだろう。急いでることに変わりはない」
「……ねくら氏、怒ってるでしょうな」
「怒ってる……?」
ねくら氏は優しい。態度や物言いは率直な女性だが、遅刻した程度で心情が荒れることはないと思った。
「待つーわー、待つわー! いつまでも待ーつーわ」
鼻歌どころか、いつの間にかはっきりと声が出ていた。
「待ってるのは根暗氏ですぞ。急ぎましょう」
夜雨の中、我々は目的地に着く。男二人を守るには、折り畳み傘は小さく、我が鼻歌スキップがさらなる被害を加えた。お互いの肩はしっかり濡れており、私に至っては膝下がずぶ濡れだった。
「あ、ありがとう、メガネ君」
「うむ。道中で相方の愚行が垣間見えましたが、なんとか着きましたな」
「す、すまぬ」
店内は賑わっていた。人の声で溢れ、がやがやという形容が正鵠を射る。酷い雨天にも拘わらず、酒のせいか、華金のせいか、遍くテーブルが盛り上がっていた。我々は店員に案内され、店の中を進んでいく。通されて間もなく、ねくら氏を発見した。テーブル席に一人、俯いて座っている。
「ごめん。お待たせー」
「うん」
ねくら氏の元気が無いように見えた。返答も芳しくない。だが、立っていても仕方がない。取り敢えず席につくことにした。
「ごめんなさい。遅れて」
「すまぬ。ねくら氏」
「うん……」
明らかに雰囲気がいつもと違う。盛況真っ最中の他の席とは対照的に、我々の周りには不穏な気配が漂った。下手に触れれば、弾け飛びそうな地雷が、手元に置かれている、ように見える……。私はこの状況の打開策を思案し始めた。
「え、どうした……?」
その瞬間、ねくら氏は深くため息をついた。激しく険しい目つきでこちらを睨みつける。表情がかなり強張りだした。どうやら地雷は下手に触れて弾け飛んだ。私は怖気づき、一瞬体が硬直する。俯いて彼女の目線から逃れた。
「期待しすぎだったかな」
ねくら氏が口を開き始めた。どこからかヴェルディのレクイエム第二曲、怒りの日が流れ始めた。
「今、私にかける言葉、どうした?であってると思う?」
「連絡なかったよね。メガネ君からは遅れる、ごめんなさい、の連絡あったけど。仕事中でも少し抜けて、遅れますぐらいの連絡は出来るよ」
私は咄嗟に返答を試みたが、彼女はもう止まらない。間髪入れずに怒りと悲しみを羅列する。
「それにメガネ君が社内で待つ必要なかったよね。先にこっち来て私とご飯食べれたじゃん」
「そもそもなんで傘持ってないの? 濡れたくないなら、雨の日に傘ぐらい持ちなよ」
「今日の予報見た? 午後から雨だったでしょ? 天気予報に傘のマークが出てたら、あれって雨が降るって意味なんだよ? 分からない? 降水確率80%って書いてあったら、高い確率で雨は降るんだよ?」
「店内で一人なの私だけだったし。だいぶ寂しかった。 周りの席は凄いお話盛り上がってるのに、私だけ粛々と二人を待ってた」
「もうちょっと私の事考えてくれてるものかと思った。ごめんね! 期待しすぎだったね! え、どうしよう。やっぱり今日メガネ君と二人でご飯食べようかな。人を軽々しく何時間も待たせる人は友達になれない」
「いつも時間にルーズだし、普段から遅刻するし。っていうか、遅刻しない時無いし。もう、どうしようもないね!」
少し間が開いたため、私は一言だけ返した。
「反省してます……」
すると、メガネ君が呟いた。
「彼、ここに来る道中、鼻歌スキップでした。反省してないと思います」
───メ、メガネ君……!?
終わった……。唐突な暴露に驚きを隠せない。メガネ君も、待たされていた時間の中、そして雨天での一つ傘の下、静かに怒りを溜めていたのだろう。そのことに気が付けなかった。
二人はゴミを見るような目でこちらを見ている。というか、もはやゴミを見ている。私はゆっくりと目を閉じた───。
会議は荒れる。されば進まず、纏まらず。
───気づけば、私は脳内会議室にいた。
窮地に陥った脳内では、エマージェンシーコールが鳴り響いている。真っ暗な部屋の中央に、艶のある木製の円卓が一つ。周りには革のダイニングチェアが五つ。
緊急時専用、インサイド・ヘッドが発動した。事態の収束、一発逆転の一手を求めて、私の中の感情が議論を始める。
集まったのは、”悲哀”、”卑屈”、”楽観”、”自由”。全員私と同じ風貌である。格好も等しい。シンプルなワイシャツ姿で揃っている。彼らの区別は、ワイシャツの色と表情でのみ図ることができた。案外、それだけで見分けはつく。
当の私本人は、議長として会議の趨勢を見守る役割である。まずは私が口火を切った。
「緊急事態だ。皆知っての通り、友達を失いかけている。大方の予想では5分ももたない。100日後に死ぬワニどころではない。5分後に霧散する友だ……」
物音一つ聴こえない。人生の最たる静寂は今であった。
「すまない。余計かつ悲惨なジョークが口をつくぐらい切羽詰まっている。早急に全員で対策を練り、瞬時に施行まで持っていきたい」
すると、流し過ぎた涙で水色ワイシャツの襟がびしょ濡れの”悲哀”が、嗚咽を含みながら唐突に喋り出した。
「もうダメだぁ! んぐっ……。ダメだぁ!終わったぁ! 根暗さんにもメガネ君にも嫌われたぁ!! ひぐっ……。死んでやる!こんな世界もうなくなればいいんだ!!」
───こいつは話にならない。何だこいつ。私の一部なのか?
次に、纏い過ぎた陰気がたまたま人の形になったような暗い風貌が特徴、灰色ワイシャツの”卑屈”が出てくる。目の下のくまが目立つ彼は、顔を下げ、誰とも目を合わせずにボソボソと呟いた。
「あれだろ。俺だから許してもらえないんだろ。クソが。メガネの野郎だったら何も文句は言わなかったんだろ。選り好み女が。黙りやがれよ」
───あぁ。こいつもダメだ。こいつは一部たりとて外に出してはいけない。自らの性格を真っ当に極め過ぎている。よくこんな奴を脳内で飼い慣らし、私は何年も生きてこれたな。
「まぁまぁ、そう卑屈にならずに。大丈夫。友達を一人や二人失ったところで世界は何も変わらないよ。一人でのんびりと、ゆらゆらと生きていくだけ。ただそれだけ。大した事じゃない」
───黄色ワイシャツの”楽観”が口を挟んできたが、こいつも捻じれて変な方向に曲がっている。せめて、そう簡単に友達を失うことはないよ、という楽観的スタンスをとってほしい。失ったところで世界は変わらない、とは何だ。視野が広すぎる。今は世界とかどうでもいい。そもそも友を失わないための会議である。
四人中三人がこのあり様。私はどうして齢二十五まで生きてこれた。家族、友、海、山、石、砂。愚者を生かしてくれた全てに感謝の意が溢れてくる。自らの人生に思いを馳せ、感慨に耽る。
寧ろ、ここまで生きただけでも、かなり健闘した方かもしれない。私の理性が、多大なる献身で私を守っていた。その保護下で、涙を流さず、陰気を隠し、楽観を押し殺したうえで慎ましく人生を全うしてきたのだ。
「──しかし、もうこれ以上、この感情達を引き連れたまま生きて行くのには無理がある……」
もう充分かもしれない。このまま若くしてこの世を旅立ち、生まれ変わり、人々に慈愛を与えるマザーテレサ的な何かになれば、我が理性も報われる気がした。
ねくら氏、メガネ君、ありがとう。諸君との日々も楽しかった。二人どころか、自らの人生にもお別れを告げるという最悪の戦略を採択することにした。だが、これが私にとって最悪であり、世にとって最善の策なのだろう。皆、さようなら。どうか、元気でいることを願う……。
その時、荒れ果てていた会議を、真っすぐで伸びやかな声が貫いた。
「歌うしかないわよ!!」
──忘れていた。あと一人、”自由”が残っていたな。う、歌うと言ったか……?
緑ワイシャツの”自由”が、席から立ち上がり、大きく両腕を広げて訴える。
「もう、こうなったら歌っちゃいましょう!」
静かな部屋に、卒爾としてはつらつとした声が響き渡る。
「解決するか? それで……」
「いいえ。多分しないけど、何か歌いたいわ!」
「貴様は貴様で自由過ぎるだろ」
「そうねぇ。阿保みたいなこじつけで、野垂れ死んで生まれ変わろうとする馬鹿より、よっぽど良いんじゃないかしら?」
「……それはそうだな」
「そうよ。素敵なお友達二人をくだらない理由で失くしそうなゴキブリ以下の愚民が、生まれ変わってマザーテレサになれるとでも?」
──表現の自由にも程がある。それに、なぜ場末のスナックのママみたいな奴が、私の中にいるのだ。
「歌っちゃいましょ。ね?」
「歌うと言ってもな……」
「ねくらさんが好きなバンドがあったじゃない。確か、冷め過ぎたカレーパンみたいな」
「全然違うが、何が言いたいかは分かる」
「うん。それを歌っちゃいましょ!」
「いや、絶対解決しないだろ」
”自由”は顔の前で人差し指を立て、横に振る。
「解決するしないの話じゃないの。歌うか歌わないかってこと。分かる?」
「分からない」
「うん。まぁ、考えるより動いちゃった方が早いわね。取り敢えずやってみなさい。はい! いってらっしゃーい!」
「──うぐっ……!うぅ……」
元気よく声をあげると同時に、”自由”の渾身の右ストレートが私の右頬を打ち抜いた。私から鈍いうめき声が漏れる。脳内会議室は、感情側の誰かが議長である当人に痛みを加えれば現実に戻れるという、悲しいシステムを採用している。
───い、痛い。いやしかし、自由の一存で決まったうえに、あまりにも駄作の施策だが……。何もしないよりは良いかもしれない。
愚策は君へのラブソング
現実に戻った私は、相対する二人の冷たい眼を見て、怖気づいた。やはり自分はゴミなのだと自覚せざるを得ないほど、無慈悲な眼光である。
しかし、決定事項はやり切るのが男。どうしてかいきなり湧いた任侠道で、私は”自由”の施策を実行に移す決心をした。意を消して口を開いた。
「二度と……」
体が震える。言葉が止まってしまった。店内は相変わらず活気で満ちている。女房の愚痴をこぼすおじさん、上司を謗るOL、内容の無い会話を繰り広げる若者集団。それら全ての声が遠くに聞こえる。我々三人の場所だけ、世界から隔離されているようだった。
ねくら氏が聞き返した。
「二度と……?」
もう、やるしかなかった。震えを取り払ように全身の力を使い、会心の声量をもって、私は歌い出す。
「二度と~! 解けない~! 風に……」
歌い続けようとした瞬間、いきなり視界が全て暗転した──。
暗闇の中、目の前に”自由”が現れる。
「あんた、バカなの? 何、今の。確かに冷め過ぎたカレーパンの曲だけども。唐突に最初から歌い上げたでしょ。そんな馬鹿がどこにいるのよ。会話に織り交ぜなさい」
「あまりにも難しいのだが」
「そうね。じゃあ、冷め過ぎたカレーパン作戦は失敗で終わり。愛もカレーパンも冷めたままってことかしら。ま、方針を変えましょう」
「作戦名も、その拙い言葉遊びも大失敗だ」
”自由”はさっぱり、きっぱり、自らの意見をぶつけてくる。割り切りが良いにもほどがある。竹を割ったどころか、寸分の歪みもないほどに迷いがない。他に左右されないのは、正に”自由”を冠すにふさわしい裁量である。
私のような日和見主義のふわふわ付和雷同男は、はっきりした主張に流されるしかない。”自由”の独壇場にひたすら賛同するしかなかった。そして、私の中にこのような感情がいることも信じ難く、まだ受け入れることが出来ていなかった。
「……至急、鈍角以上の方向転換を頼む」
「あ、そうだ……!」
その瞬間、”自由”が何か無邪気に嬉しそうな顔をした。その笑顔は、表面上だけメッキの輝きを放ち、その奥は他への脅威に塗れていた。一瞬でそう感じ取ることが出来るほど、歪な喜色満面であった。
「私最近、ラップが好きなのよね。YO! YO! ってやつ」
「だ、だからどうした。まさかやれというのでは無いのだろう」
「いや、やるわよ。やってきなさい。面白そうだし」
「また同じ轍を踏むぞ。謝罪など、これでは一生できない」
合わせていた視線を逸らし、斜め下を見た”自由”は一度大きくため息をつく。まるで怖気づく私を揶揄したいかの如く、呆れ草臥れた感情をあからさまに態度で主張する。
「単純に謝っても、もう許してもらえないでしょ。まやかしでも何でもいいの。装飾した言葉とファニーなリズムで彼女の気持ちを揺さぶるのよ」
尻込みする私の尻を蹴り飛ばした後、有無を言わさずに、”自由”の右ストレートが再び炸裂する。暗い会議室から、視界が明転していく──。
覚醒。最恐ねくらップ
目の前には、見たこと無いほどに、怒髪天を衝いたねくら氏がいる。逆立った髪は先ほどの愚策で、彼女の神経も髪も逆撫でしたからだろうか。今、彼女はねくら氏ではなく、何百年も固く閉ざした封印から解き放たれた怪物である。彼女の纏うオーラがそれを物語っている。一方で、本状況を作り出した張本人は怯えあがっている。
「なん、か、今、おいしくるメロンパン、歌わなかった……?」
慌てて全力で否定した。
「い、いや! 誤解だ! そんなことできるわけない」
ねくら氏は何も返さない。一方で、メガネ君も目をつぶったまま、微動だにしない。既に、平凡な案では一切合切取り返しが付かない段階までやって来たのだ。
私は一呼吸置き、決意を固める。一人、いや独り。ただ独りで言葉を紡ぎ、弁明と共に韻とリズムを生み出すことにした。
まず、深く頭を下げた。何事も誠意が肝要である。まやかしを使うのはその後。あくまでも全ては謝罪の心が立脚点であることを伝えねばならない。
頭を下げたまま、言葉を紡ぐ過程で顔を上げることにした。そして、私は少しずつ韻とリズムを生み出し始める。
「まず、ごめんなさい。これは虚言じゃない。聞いてくれ、減点ばかりで最底辺、まで至った悲しい俺の話。謝罪の言葉叫んだらいい? でも、謝ってばかりなのも変じゃない? 拙い男はご縁が無い。とか言わずに皆で飛べんのが愛!」
我々の場が、また一段と深く静まり返った。未だねくら氏は黙視を続ける。怒りを通り越して、悟りを開き始めているようにも見えた。心なしか後光が差しているようにも感じられる。
一瞬の空白の中、頭に”自由”の声がこだまする。少し失望したようなトーンだった。
「加減の利かない男ね。バレバレじゃない。お洒落じゃないのよ。ずっと、ごめんなさいで踏んでたでしょ。もっとリリシズムを感じたいわ」
何のために何を叱られているのか解せない状況と、絶体絶命の静寂。これほどまでの混沌に頭を痛めたことはなかった。私はただ項垂れた。ここからの前進を図る体力も、打開策を考える気力も残っていない。
すると、静寂の中、突如として私の全身に悪寒が走った。何か途轍もないものにとどめの一撃を食らう前のおぞましさが、体を巡る。私はこの後訪れる、その何かに死を覚悟した。そして、ねくら氏が口を開いた。
「違うと思うの……」
「今、なんと?」
一瞬、何かボソッと聞こえたため、上手く聞き取れなかった私は、聞き返した。それがいけなかった。微塵も予想していなかった悪夢の始まりだった。ねくら氏の声は重く、突き刺すように放たれる。
「違うと思うのその対応。謝ってほしい訳じゃないの。自分勝手な君の態度。が、気に食わないって言いたいの」
私は、啞然として口と目をただひたすら開いていることしかできなかった。
「今後、あなたの言葉は全無視です。まるで地面に転がるうじ虫です。愛情も縁も失くしてく。だから残念、そのまま孤独死です」
私は、ここでさらに悪手を重ねた。
「ま、まさか。ねくらがラップ、する、なんて……。いやぁ。き、奇想天外だ、なぁ……」
「奇想天外。無能全開。思考が蒙昧。知能は停滞。口だけが軽快。こいつは変態。もうこれ以上付き合うの限界。何、その体裁だけの謝罪。そんな誤魔化し意味が無いの。理解し難いの。きりが無いの。好きじゃないの。君は要らないの。薄っぺらな誠意で語る愛、私はそれが一番嫌い」
怒り、軽蔑、怨念。様々な負の感情で、心も体も蜂の巣にされた私は、自然と地面に膝をつき、頭を擦り付け、土下座の態勢で蹲っていた。もうそれ以外にすることは残っていない。追い打ちをかけるように周りの視線が痛かった。
丸くなくとも、歪に収まる時はある
しばらくして、ねくら氏が口を開いた。
「なんか、たくさん吐き出したらすっきりしたかも」
すると、騒動の最中、沈黙を貫いていたメガネ君も、ようやく口を開いた。
「普段は良識や倫理に則して抑えていますが、溜め込まずに攻撃的な言葉を人にぶつけるのは、かなりストレス解消になりそうですな」
「メガネ君もちょっとやってみたら?」
メガネ君は斜め上に目線を逸らし、類まれな思考力で何か熟考した後、合点がいったようにねくら氏に視線を戻した。
「では少しだけ。積悪の家には必ず余殃有り。貴殿は末代まで呪われる運命なり。迷惑の貴殿に払う敬意無し。天から落雷を落とされて夭逝なり」
ねくら氏はびっくりしたようにメガネ君を見た。
「よく分かんないけど、なんか怖い。メガネ君もなかなかやるね」
「お灸を据える時は、牙を隠す必要はないのですぞ」
「ほう。さすがです」
店内は既に元の賑わいを取り戻していた。土下座態勢の人間へ、不思議そうな眼差しを向けていた周囲の戸惑いも消えている。ねくら氏は、気を取り直すように声を発した。
「そこで蹲っている男性。もう許していいかな。何かすっきりしたし」
「同感ですな」
「ほら。もういいから。お酒飲も。ご飯食べよ」
私は涙でびしゃびしゃになった顔を上げて、二人を見た。
「いいのか……」
「うん。もういい。何か、どうでもよくなった。ただ、これに懲りたらマイペースはほどほどにね」
「はい……」
その後、我々は席に座り直し、気を取り直して平生の駄弁を、少しずつ繰り広げ始めた。彼らにも私にも、徐々に笑顔が舞い戻った。
ふと、二人から視線をずらすと、夜の街を映していた店の窓に、水滴が滴っている。まだ雨は降り続いていた。その窓へ向かって小さく呟く。
「一生敗北。一陽来復……」
ねくら氏が強めの声で問いかけた。
「何か、言った……?」
「いえ、何でもないです」
私の中の”自由”の作戦が功を奏したのか、ねくら氏とメガネ君の懐が深いだけなのか、何が要因で助かったのかは定かではない。
しかし、決定的なのは、我々三人の関係性が、この先も大きくは変わないことだろう。私が何か狼藉を働けば、ねくら氏、メガネ君が正してくれる。そうして、均衡は保たれるのだ。
「甘えないでね。次はないから」
「すみませんでした」
私は未だ窓の外を眺めたまま、心の中で歌った。韻や分かりやすいリズムは無かった。
「──ねくら氏、メガネ君。我儘ですまない。恩に着る。今回は”自由”にも感謝する」
「──良かったじゃない。結果オーライね」
頭の中に”自由”の声が響く。もうすぐ、雨は止みそうだった。