見出し画像

第一章:エンジニア、救急車に乗る

これは、とあるエンジニアの物語である。

始まりは2016年9月のことだった。
20代は営業からエンジニアにジョブチェンをして、5年近くエンジニアとしてキュリアを歩み、縁があり31歳になって転職することすることになった。

ここが物語の始まりだった。

創業時期でもあったため、最初から案件があるのか不安もあった。
なにより自分のスキルセットで貢献できるのか?という不安が大きかった。

そして、リモートワークが基本な会社で、だれにも聞くこともできない状況(会社の場合だと、リアルに声をかけれる)で、自分の腕だけで経験不足なところを補えるのか?という不安もあった。

自分の中で、たくさんの不安がある中で始まったのだった。(両親にも妻にも)

前職時代から Movable Type という CMSを扱う案件が多く、そのCMSのナレッジはたくさんあった。

Movable Type とは、2001年10月8日にアメリカのサンフランシスコで生まれた。最も長い歴史を持つブログツールである。

Movable Type wikipedia

転職して始めてのお仕事は、カンファレンスサイトのマークアップ・Movable Type 構築だった。
カンファレンスサイトの構築は、自分にとっても良い経験だった。
タイムテーブルと登壇者をどのようにリレーション(連携)を行い、運用更新の手間を減らすことを考えた。

当時の自分にとっては、よく考えたと思ってる。
それが運用の負担が減ったというと減ってはいなく、むしろそれを知るためにはやり方をレクチャーしなければならないという状況を生んでしまった。
課題とは運用後にわかるものだ。

当時はドキュメントは私の頭のなか状態だった。
作って終わりではなく、自分の頭のなかを言語化して落とし込むことが必要だと感じたのだった。


ときが少し進み、2017年は出向の年になった。
出向とは、会社に常駐して仕事を行うことだ。出向は前職でも4ヶ月ほど東京にいた。
当時の出向とは違ったのは、Webサイトの運用保守というよりはWebアプリの案件に近いものだった。
また、20代と30代という年齢的な違いもあった。

20代と30代では、体力的にも異なってくる。

20代の頃の自分は朝帰るのが普通だった。
その生活を繰り返したことで、30代になった年に身体を壊した。
身体を壊したことは自分自身の体調管理でしかない。仕事の問題かもしれないがそこを割り切って時間管理出来ていなかったのだろうと思ってる。

問題になったのは肝臓だった。酒の飲み過ぎなのかストレスなのか。
過度なお酒は今後控えてくださいと診断されたのだった。

今でも覚えてる。出向日の前日くらいにひどい熱に襲われた。。。
それが過度に働いたせいなのか。かなり遅くまで仕事をしてたような記憶をしている。
当時の自分の働き方は、酷かった。(前職時代と同じような働き方を引きずっていた)

息子が生まれたばかりで、妻は実家で生活をしていて出向するときくらいに子供と帰ってきたときでもあって、こんなにひどい熱のお父さんがいたら子供が感染ったら大変だ。ということで今度は自分が自分の実家に帰った。


人生初の救急車に乗った

一週間ほど実家に帰ったが、病院でもらった薬が全くきかず40℃を超えた。
その状況が続いたこともあり、両親が救急車を手配してくれた。
そして、、、

救急車が初めて乗った。

前職時代、徹夜が続いてトイレで用を足してる最中に意識が飛んで倒れたことがある。
意識もどったら時には便器に血がついてて、額から血が出てたのを思い出すが救急車を呼ぶことはなかったが、今回は親が呼んでくれた。

救急隊が自宅に入ってきて、「立てますか?」と言われて、とりあえず意識はフラフラだったけど自分の足で救急車に乗った。

救急車にのって、言われるがままに横になってた。

付き添いは母親が乗ってくれた。
なにか喋ってるのは聞こえたが、ぜんぜん覚えていないが年齢だったり体調のことだったり話していたのだろうと思う。
これとは別に息子が怪我をしたときに救急車を呼んだことがあって、それらを聞かれたのでそのあたりだろうと思ってる。

救急車の中めちゃくちゃ揺れる

これは冬道で道がガタガタだったからかもしれないが、救急車はサスペンションってないんか?って思うぐらいガタガタ揺れまくりだった。
普通の乗用車でもこんなに揺れないのでは?と思ったくらいだった。

とにかく揺れまくり、すごい気持ち悪くなったのを覚えてる。
来ていただいてめちゃくちゃ感謝でしかないのだけど。。。

救急病院に連れて行かれて、どデカい点滴を打った。
終わるまで1時間位かかりますと言われて、ずっと寝てた。

どデカい点滴を打ってるときに思い出したけど、そういえば前職で肝臓ぶっ壊したときにもこんなどデカい点滴2本くらい打ったなーと思い出していた。(そのときは二時間か三時間くらいベッドにいた)

そして、終わったあとはタクシーで帰った。

救急車の中は、くもりガラスだったのでどこを走ってるのか・ここはどこの病院なんだ?という状況で乗って病院にインクルードされるわけだ。

そんな状況でどデカい点滴を打って、問診されて帰宅するわけだ。
病院を出た瞬間。ここどこだ?ってなる。夜中だったのもあるけども、普段見慣れないところに出ると??がつく。

両親とタクシーに乗って、タクシーの窓から外みてをいまどこにいるのか記憶が蘇っていった。
そこがどこなのかわかっていく。。。監禁されていた人が開放されたときの感覚に近いもしれない。

救急車は本当に困ってる人に使いましょう。
自分も困ってたけど、もっと困ってる人に使うべきだと反省した。

そして、最初にいった薬が糞も効かなった病院の先生から朝に電話がきた。
フラフラしてたから思い出せないが、救急車に運ばれたから?なのか。電話がきた。
全然効かない薬を〜みたいな文句みたいになってしまったが、あの薬は徐々に効いてくる薬です。みたいな内容だった。

そんなことよりも40℃も上る前に抑え込める即効性の薬が私にはほしいのですよ先生。


それが私のこの会社での出向の始まりとなった。
そして、この会社での私のハードワークが1月〜3月集中していくことになっていくとは、このときは知るよしもなかった。

続く。。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?