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<至仏山>曇り空から一変、突然の青空に息を呑む

頂上は、厚い雲に覆われていた。
日の光はその厚い雲で完全に遮られ、視界は薄暗い。人の存在が目でなく、声でわかるほどだ。眺望は皆無で、そして風は強くて、冷たかった。
景色を楽しみながらと思っていた舞茸弁当を寒さに震えながらほおばる。風がさらに強まり、ジャンパーをバタバタと鳴らした。弁当が飛ばされていかないように手で押さえるのに必死だった。弁当を食べ終わった後も、粘ってみたが空模様に好天の兆しは見られなかった。「雨じゃないだけましか、しょうがないまた来ればいいか」と下山を決めた。しかし、歩き始めて数分後。後ろの方で歓声が聞こえた。きっと雲が流れたんだと思い、急ぎ足で戻った。
頂上に戻ると、切れた雲間から遠くの山々が姿を現してきた。徐々に見えてくる姿に比例して、僕も同じように胸の中で歓声をあげていた。雲の上から差し込む日差しに、身体がじわじわと温められていく。日差しはもう眩しいくらいだ。頂上に居座っていた雲はもうほとんど、どこかへ行ってしまった。さっきまでとは一変した空は、本物に限りなく近づけたフェイクな空のように青々としていた。
遮るものがなくなった至仏山からの見晴らしは、僕をその場に釘付けにさせた。特に尾瀬の草紅葉とその奥に聳える燧ケ岳の組み合わせは最高の眺めであった。草紅葉が広がる大地は日の光を浴びて黄金色に輝き、こんなにも広大な面積を占めていたのかと思うほどに遠くまで続いている。その先の燧ケ岳には雲が下半分に残っていたため、頂上部分が雲から飛び出していて、小さい山が浮いているように見えた。「この大空間に飛びこんで、風の中を泳げたらどんなに気持ちがいいことだろう」そんなことを思いながら、果てなく広がる景色を前に立っていた。
「ここから離れるのがもったいないよね」横に立っていた見知らぬ男性がそう声をかけてきた。
「この景色、ずっと見ていたいくらいです」
「こんな青空贅沢だよ。展望がすごく良い」
「さっきまでの天気が嘘みたいな変わりようですね」
「良くなるか悪くなるか、どっちに転ぶか誰にもわからない。山の景色はちょっとの差で変わるから」
刻々と変わっていく雲の形、その変化に富んだ様子はいくら見ていても見飽きることはなかった。たしかに、ちょっとの差で見える景色は全く変わってくる。頂上に着いた時、粘ることをせずに早々に出発していたら、この景色を見ることはできなかったに違いない。そのちょっとの差でさえ、コントロールするなんてできはしないのが自然だ。今日の今しか見れないこの景色を、僕は目に焼き付けるように見続けた。
間もなく時刻は正午過ぎ。帰りのバス時刻を考えると、もうそろそろ下山しないといけない。僕はしゃがんで、緩めていた靴紐を結びなおした。ブーツは、登る時に道がぬかるんでいたため泥だらけであったが、日差しによって、あちこちについた泥汚れはすっかり乾いて、かさぶたのようになっていた。
下山する方向に目を向ける。秋の晴れ渡った青空には、巻き取れば綿菓子ができるような、ふんわりした雲が連なっていた。その下にはずっと先まで道が続いている。暖かい日差しを受けながら、空気を大きく吸い込んだ。残りは下るだけだ。「よし出発しよう」と口に出し、僕は足を踏み出した。

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