20240922学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第33章-1 青年共産主義インタナショナル
20240922
『三つのインタナショナルの歴史』
第33章 革命的展望、第2回大会(1920年)
コミンテルン第2回大会は、1920年7月17日から8月7日、モスクワで開かれた。1919年3月の第1回大会からの約1年7ヶ月の間に、革命の波はヨーロッパの中部と東部で高まっていた。
ドイツでは、ノスケの恐怖政治にも関わらず労働者が危険なカップ暴動を撃退した。ハンガリアでは第1回大会の2週間後にハンガリア・ソヴェト共和国が誕生した。ソヴェト・ロシアの赤軍は、ポーランド軍を含む敵軍の全てを社会主義共和国から急速に一掃していた。こうした革命に、世界のブルジョアジーはすっかり恐れをなした。アメリカのハウス陸軍大佐はウィルソン大統領にこう勧告した。「ボリシェヴィズムはいたるところで勢力を得ている。ハンガリアもついに屈服した。我々は、開けっぱなしの火薬庫の上に座っている。いつかは火花がこれを爆発させるかもしれない」
こうした革命的情勢の真っ只中で、共産主義インタナショナルは誕生したのである。世界中のマルクス主義運動の陣営は心から勇気づけられた。多数の政党が、この革命的なインタナショナルに結集し始めた。
1919年3月から1920年3月までの間にコミンテルンを承認、または支援の声明を出したものは次のとおりである。
イタリア
ノルウェー
ブルガリア
ギリシア
スウェーデンの社会党
ハンガリアの共産党
オランダ
スイス
アメリカ合衆国
イギリス
スペイン
フランスの社会党
スペインとイタリアの労働組合総連合
その他、本物の革命闘士だけではなく、大衆の左翼運動の波に乗ったいかがわしい日和見主義分子たちも、コミンテルン加盟を宣言した。コミンテルン参加は、中間派日和見主義者たちの「流行」のようなものとなった。
コミンテルン第2回大会には、35カ国、42支部から代表が出席した。
[青年共産主義インタナショナルの結成]
コミンテルン第1回大会と第2回大会の間に、重要な組織が現れた。1919年11月にできた「青年共産主義(ヤング・コミュニスト)インタナショナル」である。この組織の会議は非合法であったが、14カ国から298名の代表者がベルリンに集まった。綱領は共産主義インタナショナルの一般方針に基づいて作成された。特に、生活、労働条件、軍国主義および教育に関する青年の要求が中心となっていた。青年共産主義インタナショナルは形式上は独立の立場をとったが、実際は共産主義インタナショナルと密接な関係を持っていた。それぞれに実行委員を交換したのである。
青年共産主義インタナショナルの指導者は、ウィリ・ミュンツェルベルグという。共産主義運動に食い込んでいった多くの日和見主義者のうちのひとりである。
マルクス主義的青年運動は、初めのうちはスポーツ団体や親睦会という形で活動し、1890年代に西ヨーロッパで盛んとなった。この時期にあったのは第2インタナショナルであるが、その指導者たちは青年運動にはそれほど関心を持っていなかった。ところが、1907年のシュトゥットガルト大会において、青年部は国際書記局の設立を成し遂げたのである。1914年には15の組織と17万人のメンバーを抱えるほどになった。カール・リープクネヒトは、この青年運動の創立者メンバーのひとりである。
第1次大戦が始まった時、官僚的な青年の指導者たちは第2インタナショナルの方針に従い戦争に反対した。ド・マン、ダンネンベルグなどである。しかしすぐに青年大衆は戦争反対を支持し始めることになる。それで1915年4月のベルン青年会議は戦争反対の組織運動となったのである。その年の10月3日には、国際青年デーが開催された。しかし、この会議の反戦決議は平和主義的なものであった。これに反対したのが、レーニンの方針を取るロシアの青年たちであり、彼らは「帝国主義戦争を国内戦に転化せよ」と主張した。ベルン大会この方針はが否決されると、国債書記局は『インタナショナル・オブ・ユース』(『青年のインタナショナル』)を発行した。これにはレーニンが寄稿していた。
戦争や革命闘争において、青年は積極的に活動した。特にソヴェト・ロシアの共産青年同盟、すなわちコムソモールは、極めて重大な役割を果たした。国内戦を戦い抜き、戦争で破壊された経済の再建にも従事した。1920年の初めには、コムソモールのメンバーは40万人にも上った(1919年11月の設立時は約20万人だった)。広範な大衆運動の中で青年の組織を作るということは、共産主義の重要な政策の一つであった。第2インタナショナルの時とは違い、強力で強大な組織とするため、1921年にはスポーツ・インタナショナルが結成された。レーニンにとって青年の活動は極めて重要だったのである。