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20230918学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第19章-2 日和見主義は白人排外主義にも繋がった

20230918
『三つのインタナショナルの歴史』

「ドイツ党内におけるたたかい」

ベルンシュタインがドイツ社会民主党大会に宛てた手紙は、シュトゥットガルト全国大会でも、1899年のハノーヴァー大会でも、そして1903年のドレスデン全国大会でも否決された。ベルンシュタイン修正主義に強く反対し、反対闘争を積極的に指導したのは、ベーベルとカウツキーだった。この二人は、のちに中央主義的な傾向になっていくのだが、ベルンシュタインの綱領に潜む社会主義の全面的降伏を受け入れるというわけではなかった。カウツキーは「科学的社会主義の基本的な原則と概念を放棄するもの」と言ってベルンシュタイン修正主義を非難し、これに基づいて戦いは進められた。
この戦いで特に優れていたのは、ドイツ左翼の若い指導者であるローザ・ルクセンブルグであった。
ローザ・ルクセンブルグはポーランド生まれで、1883年からポーランドの社会党で活動した。1897年からは、主にドイツ社会民主党に関心を寄せていた。ベルンシュタインの理論については次のように述べ、日和見主義とマルクス主義とは根本的に調和しえないものであることを示した。
「この理論の意味するものは社会民主主義の最終目標である社会変革を放棄し、反対に、階級闘争の手段である社会改良をその目標とすることである。ベルンシュタインにとって問題なのは、資本主義社会の発展の急速さではなくて、発展そのものの進行ということであり、そこからしてまた、ほかならぬ社会主義への変化の可能性ということにもるのである」

1903年の選挙で、ドイツ社会民主党が大成功を収めた。得票数は210万票だったのが300万票に増加、投票総数にしめる割合は18.4%だったのが24%に増加、議席数は32から55に増加した。このドイツ社会民主党の勝利によって右翼が考えたことは、ミルランに倣って政府へ参加すること(フランス民主主義の運命は危機に瀕していると断定した独立社会党が、ミルランに商業相としてルソー内閣に入閣することを承諾させたミルラン事件)を主張することであった。この要求を出したのはベルンシュタインであり、フォルマールや国会議員団の多くがこれを支持した。
1903年にはドレスデン大会があり、大会は選挙結果に危機を感じ、ベルンシュタインの提案を圧倒的多数で退けた。また、労働者階級が資本家政府に参加することを非難する強硬な決議を採択した。
こうした動きにカウツキーは、1900年のパリ大会で自分がとった行動を誤りだったと認めた。パリ大会の時カウツキーは、ミルラン事件は大会で決定を下すような問題ではないとして、取り合うことをしなかったのだ。そのためミルランのような日和見主義者に門戸を広く開けることとなってしまった。ベルンシュタイン主義は大会では敗北したものの、労働組合の幹部が育てていた日和見主義と密接に結びつき、このことがやがてドイツの党と全インタナショナルを破壊することとなるのである。

「修正主義にたいする国際的闘争」

ベルンシュタイン修正主義をめぐる戦いは、資本家政府に対する社会党の参加という問題に発展した。ヨーロッパの経営主たちは社会党の運動の進展を見極め、この運動を弱めるためにはどうすればいいのか、その方法をよく知っていた。その方法とは、幹部をそれぞれの国の政府内部に引き入れ、そこで政府を支配し腐敗させることであった。

ミルランの一件は、その最初の一つに過ぎなかった。イギリスでは、ジョン・バーンズ(労働運動幹部。以前は社会民主連盟の一員だった)が、サー・ヘンリー・キャンベル=バナーマン内閣の閣僚になった。フランスでは、社会主義者アリスティード・ブリアンとルネ・ヴィヴィアニが、セリアン内閣とクレマンソー内閣の閣僚になった。ブリアンとヴィヴィアニはフランスの首相にまでなった。いずれも1905年から1906年のことで、この後、労働者階級に対するおびただしい数の右翼裏切り者が、資本家政府の内部に入ってゆくのである。

この問題に対して、国際的に多くの左翼による闘争が行われた。これは、中央主義的な傾向の者も含む広範なものとなった。各国での戦いにおける代表的な人物は次のとおりであり、左翼は右翼に反対して戦った。
⚫︎ドイツ
左翼:ベーベル、カウツキー、ルクセンブルグ
右翼:ベルンシュタイン、レギエン、フォルマール
⚫︎フランス
左翼:ゲード
右翼:ジョレス
⚫︎ロシア
左翼:プレハノフ、レーニン
右翼:マルトフ
⚫︎イギリス
左翼:ハインドマン
右翼:ヘンダーソン、マクドナルド
⚫︎アメリカ
左翼:デ・レオン、ヒルキット、デブス
右翼:バーガー、ウンターマン、ゴンパース
この戦いは、社会党や労働組合運動のあるすべての国で進んでいった。

この闘争での左翼の弱点は、党の統一を盲目的に崇拝したことである。ベルンシュタイン主義者との統一は、党にとって弱みになることを見抜けなかったのである。この危険性を誰よりも理解していたのはレーニンであった。ロシアのボリシェヴィキがメンシェヴィキから分裂したのも、この闘争の中でのことだ。また、ローザ・ルクセンブルグも危険を感じ取っていた。ドレスデン大会で彼女は、ベルンシュタイン修正主義に賛成投票した者全てを追放するように提案した。しかしベーベルとカウツキーはこれに反対した。

これに対して右翼は、分裂に反対していた。特にドイツ、オーストリアの党でその動きが強く、強力な左翼との正面衝突を避けるためには、自分たちの立場を非難する動議にもあえて賛成票を投ずることもした。大衆等の中にとどまることが必要であり、そのためには妥協するしかなかった。

「アメリカ社会党内の白人排外主義」

第2インタナショナルの日和見主義がもたらした問題のうち最悪なものは、アメリカ社会党内での黒人人民に対する白人排外主義(白人至上主義)である。1861年から1865年の南北戦争で黒人大衆は奴隷制から解放されたものの、その後何十年もの間、黒人大衆は酷い迫害を受け続けた。教育を受ける権利、工場で働くこと、市民としての投票権、兵役に服すること、鉄道で旅行しホテルに泊まること、そうした一般的な普通の権利を受けることが認められていなかった。さらに、黒人を鞭で打ち殺したり、射殺したり、締め殺したり、焼き殺したりする野蛮なリンチがいたるところで行われた。それなのに社会党は、リンチや黒人差別待遇制度の廃止を要求することもなく、平然と黙殺したのだ。
最も悪名高い者は、バーガーやウンターマンのような、ベルンシュタイン主義者だった。また、党自体が、黒人差別に無関心であった。党は労働者階級全体の党であるのだから、黒人のような特殊なグループのための特殊な要求を持ち出すわけにはいかないと、こういう理論である。彼らにしてみたら、いつかは社会主義が打ち立てられるだろうから、その時には諸君は解放されるだろう、というのである。

国際社会等事務局は、アメリカ国内で聞かれるゾッとするような黒人迫害について、1903年のアムステルダム大会に先立ちアメリカ社会党に手紙を書いた。この手紙で、リンチに関する党の立場を尋ねた。その返事はこのような恥知らずなものであった。
「わが社会党は一つの事実を指摘する。それは、資本主義制度が廃止され、かわって社会主義制度がうちたてられたときにはじめて、飢餓狂い、窃盗狂い、色情狂い、そのほかのあらゆる犯罪的な、いまリンチにかけられているような墜落した人間が生まれたり、つくりだされたりすることに終止符をうつ諸条件がととのうであろうということである」
ところが、この返事を受け取った国際社会等事務局は、特に驚きもせず、うやむやにしたのである。


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