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20240601学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第29章-3 革命の防衛

20240601
[革命の防衛]

 1917年から1921年の初めまで、ソヴェト政府は、ロシアの反革命だけでなく帝国主義諸国の武力干渉に対しても、ロシア社会主義革命に対しても、戦わなければならなかった。
ロシアの民衆は戦争に疲れ、飢餓に悩んでいた。産業は滞り、軍事呂具戦争でほとんど破壊された。一時は国の大部分が敵の手に落ち、食糧、燃料も供給されなくなった。モスクワとペトログラードの労働者は、一日おきにたった8分の1ポンドのパンしか配給されなかった。それでも民衆は赤軍を建設し、1920年の終わりには、ユデニッチ、コルニコフ、デニキン、クラスノフ、セミョーノフ、コルチャック、ウランゲリ将軍らの軍隊その他多数の「白軍」を粉砕し、イギリス、日本、フランス、アメリカ、ポーランド、ルーマニア、チェック(チェコスロバキア)の不正規軍を国外に追い払った。
困難な中でも民衆はかたく団結し、共産党の指導のもとで反革命軍を撃退したことは、世界の労働運動にとって非常に重要なことであった。国際社会主義委員会(ツィンメルワルド派)は、ソ同盟支持を労働者に呼びかけた。オーストリアとドイツでは、1918年1月に、ロシア革命の影響で励まされた大ストライキが起きた。シアトルやフィラデルフィアでさえも、ソヴェト・ロシアの干渉軍にあてた貨物の積み込みを拒否した。
イギリスでも小さいながらも同様の運動が起きた。この、ロシア革命を支持する大衆の感情は、連合軍にも影響を及ぼした。ロイド・ジョージは、「なぜイギリスはソヴェト・ロシアでもっと力を入れて戦わないのか」という問いに、「もしそんな目的でいま多数のイギリス軍をロシアに派遣したら、軍隊は反乱を起こすだろうし、またもしボリシェヴィキに対して軍事攻勢計画を始めたら、イギリスはボリシェヴィキの国と化し、ロンドンにソヴェトができるだろう」と言明した。当時、ロシア北部にあったアメリカ軍の部隊は、1919年3月30日に反乱を起こし、アメリカ軍はすべてロシアから撤兵しなければならなくなったのである。
ソヴェト体制について、右翼社会民主主義の指導者たちは、連合軍よりも非常に敵対的な態度であった。なぜなら、彼らは資本主義の改良屋・修繕屋であり、社会主義共和国に反対していたからである。ロシアのメンシェヴィキと同様に。1919年2月のベルン対大会で、彼らは崩壊した第2インタナショナルの再結成を呼びかけていた。カール・カウツキーは、1918年に『プロレタリア独裁』というパンフレットを作り、ソヴェト制度について、特にプロレタリア独裁の理論の実践についてすでに批判していた。カウツキーは、第一次世界大戦で帝国主義者が何百万人という人間を虐殺したことに対して弁解し、悪質な反革命に対してソヴェト政府がとった抑圧政策については憤激したのである。
レーニンはこれに対して『プロレタリア革命と背教者カウツキー』という本を書き、革命期ボリシェヴィキの一般政策とプロレタリア独裁の原則を示した。この本は、革命前に書かれた『国家と革命』の続編ともいえる。ボリシェヴィキは人民に支持されている。臨時政府の打倒と憲法制定議会の解散は当然だった。これまでの支配階級を抑圧することは正しい。武装反革命勢力は鎮圧しなければならない。それは政治的に必要なことである。

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