20230506学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第3章
20230506
ウィリアム・Z・フォスター
『三つのインタナショナルの歴史』
【第3章 1848年の革命】
1848年は、ヨーロッパで数々の革命が起こった。まずフランスに始まり、ドイツ、オーストリア、イタリア、ハンガリー、ベルギー、ポルトガル、そのほかのヨーロッパ諸国を巻き込んだ。
その波紋はイギリス、アイルランドにも及び、さらにポーランド、ロシア、そしてアメリカにまで反響を及ぼした。
《この運動は、台頭する資本主義が衰退する封建制度にくわえた最大の打撃の一つであった。》
[フランスの革命]
1848年2月24日、パリ。革命がなぜフランスから起きたのか。
フランスでは、ヨーロッパ大陸の他のどこの国よりも産業が発展していた。
フランスのブルジョアジーは、他のどこの国よりも一番強大で革命的であった。
フランスの労働者階級は、政治的に一番成熟し、暴動の方法にも慣れていた。
フランスの封建制度は、1789年のフランス革命以来続く革命の打撃のために、ヨーロッパ大陸で一番弱かった。
こうしたことが理由に挙げられる。
パリの労働者は、まず国王ルイ・フィリップを追放した。そして「同盟軍」として、小ブルジョアジーと、王党派と連合していた銀行業者や大金融貴族と争っていた大ブルジョアジーの下層、これらの者と手を組んだ。
新たに作られた臨時政府は、労働者側の要求する共和国の宣言をためらった。労働者の指導者ラスパイユの脅しに震え上がった臨時政府は、あわてて町中の壁という壁に「フランス共和国 自由・平等・友愛!」と書いたチラシを貼った。
労働者側はさらに、男子普通選挙の実施と労働者の国民軍参加を承認させ、大規模な国民作業場をつくらせた。この工場によって国民の貧困を解決できると考えたのだ。そして、社会改革の問題を研究する委員会を設立させた。
こうした労働者の革命的精神と行動力に驚いたブルジョアジーは、同盟関係を結んでいることに危機感を覚え、この関係を解消しようとした。
新しい国民議会は、主に農民の票で選出された。彼らは保守的で反動的だった。彼らは2万4000人を動員し、遊動警備隊をつくった。警備隊は国民作業場を攻撃し、また、請負仕事制度を労働者に押し付けた。これに対抗して労働者の暴動が起きたが、もはや反動化した政府をひっくり返すことはできなかった。国民作業場は完全に閉鎖されてしまった。
6月22日、パリの労働者は激烈な反乱に立ち上がった。これは、マルクスが描いた「近代社会を分断させている二つの階級の間の最初の大戦闘」であるとし、「ブルジョアジー打倒」「労働者階級の独裁」のスローガンのもと、労働者は比類のない勇気と天才とを発揮して、指導者もなく、共通の計算もなく、資力もなく、大部分は武器ももたずに、軍隊や遊動警備隊やパリの国民軍や地方から繰り込んでくる国民軍を5日間にわたって食い止めた。
しかしこの戦いに労働者は敗れ、3000人がカヴェニャックに殺され、何千人もの者が牢獄にぶち込まれた。
フランス国民議会は1848年12月10日、ルイ・ボナパルトを大統領に選出した。彼は1851年12月2日に独裁的権力を握ると、1861年には皇帝となり、ナポレオン3世を名乗った。のちに、フランス・プロイセン戦争(1870-1871)の大敗北に引きずり込む人物である。
[ドイツの革命]
パリで始まった革命はオーストリア、イタリア、ハンガリーなど周辺国にたちまち広がり、革命の理由はパリとだいたい同じだった。ドイツも例外ではない。
パリ革命の1週間後の1848年3月4日、労働者とその同盟軍は、ドイツのケルンで立ち上がった。3月13日にはウィーンの人民がメッテルニヒ公と政府を追放した。それに呼応するように、18日にはベルリンの人民が武器を手に暴動を起こし、国王に国民議会と憲法制定などの要求を飲ませた。
多くの都市で同じような蜂起が起こった。
国民議会が選出され、自由主義的な政府がつくられた。
共産主義者同盟のメンバーは、ドイツにはほとんどいなかったため、マルクスとエンゲルスは民主的な組織を通して活動しなければならなかった。このドイツでの闘争のあいだに、ドイツ共産党ができた。マルクスは「新ライン新聞」の主筆となった。この新聞は最初のうちは自由主義ブルジョアジーの機関紙だったが、マルクスはこれを、労働者を支持する新聞に変えた。
革命の前夜、民主主義的な諸党派がオッフェンブルグに集まった。ここで彼らは、思想と結社の自由、普通平等男子選挙制、常備軍の廃止と民兵の設置、累進所得税、陪審裁判、義務教育制ら労働関係の改革、議会政治などの、自由主義ブルジョアジーの綱領を作った。
この綱領の目的は、分裂しているドイツを統一ドイツ共和国とし、そこで実施するものであった。統一ドイツ構想は1834年の関税同盟の結成とともに検討されており、資本家たちは、混乱しているドイツをいよいよ中央政府の元にまとめなくてはならないと考えていた。のちにドイツは、1871年に統一を成すことになる。
封建王政を倒し統一民主ドイツを作るという点で、プロレタリアートとブルジョアジーの利害は一致していた。しかし、マルクスとエンゲルス、そしてその支持者たちにとっては、このブルジョア革命はもっと徹底的なプロレタリア革命の序幕に過ぎなかった。
「われわれにとっては、2月と3月(革命の第一段階)は、それが革命運動の終点ではなくて、反対に長期の革命運動の出発点であり、人民がみずからの闘争でこれをさらに発展させ、一連のたたかいのなかでしだいにプロレタリアートがつぎつぎに陣地をきずいてゆくばあいにはじめて、本当の革命としての意味をもつことができるのだ」と、エンゲルスは言う。
この方針を「永久革命」といった。数十年後のロシア革命の際に、スターリンとトロツキーの大論争となる。
[資本家階級の裏切り]
革命当初、ドイツのブルジョアジーは封建制度を打ち破り革命的な強さを見せたのに、だんだんとぐらつき始めた。彼らにとって、封建派の反動よりも革命的労働者の方が脅威だった。彼らは、自分たちのブルジョア革命が社会主義革命に成長してしまうことを恐れたのだ。そのためドイツのブルジョアジーは、労働者階級を裏切り、反動派と手を組んだ。そうして妥協の道を守り、ドイツ統一という要求も捨ててしまった。
1848年6月にパリで労働者の敗北が決定的となると、11月には反革命軍がウィーンを制圧し、ベルリンではプロイセン国民議会が解散させられた。ほかの地域でも次々と同じことが起きた。1849年7月には、ドイツ革命は完全に鎮圧され、反革命軍が再び権力を握った。
敗北した革命家たちはドイツを去らなければならなかった。その多くがアメリカに移り、のちに奴隷制度反対闘争と労働運動の育成に重要な役割を果たした。マルクスとエンゲルスらは、ロンドンに渡った。
プロレタリアはまだまだ力が弱かった。政治的にも未熟だった。この敗北の教訓は、労働者は自分自身の独自の政党を持つことが絶対に必要だということだった。
1848年の革命から第1インターナショナル結成までの時期は、政治的反動、急速な近代産業化、労働者階級の広範な成長、革命的闘争の退潮の時期であった。
革命家はこの時期、厳しい追求を受けた。その一つの例は、1852年のケルン裁判であった。9名の共産主義指導者が反逆罪を問われた。このうち7名が有罪判決を受け長期の禁固刑を言い渡された。
ヨーロッパの産業革命は、とりわけイギリスが著しかった。イギリスの報道者の状態も多少良くなり、1846年から1866年の間に貿易の拡大と穀物法の撤廃の結果、名目賃金も実質賃金も上昇した。これによって労働者の革命的精神は著しく鈍ることになった。それでもイギリスの労働組合運動は大きな成長を遂げた。1850年代の終わりには、多くのイギリスの都市に労働組合協議会がつくられた。
マルクスとエンゲルスはロンドンに移るとすぐに、共産主義者同盟の再組織に取り掛かった。しかしこの組織はセクト主義の犠牲となり、1852年には同盟は二つに分裂してしまった。
このころ、マルクスはロンドンで酷い貧乏暮らしを余儀なくされた。エンゲルスはマンチェスターに住み、マルクスよりはマシな生活を送っていた。エンゲルスはマルクスに金銭的援助をし、マルクスの著述活動を助けた…このときマルクスは、『資本論』の著述に取り掛かっていた。
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