誰がための拳
先日までの頭のモヤが落ち着いたので、文章を今日は単発で書いていこうと思う。
先日の喧嘩のことである。
私は昔から喧嘩腰になることが多く、今回も「望んで」喧嘩腰になった。というのも、「トモダチ」が困っている様に見えたからだ。
「~~を言って欲しくない」
「○○を言われて辛い」
そんなことを言われて、いい気になるはずがない。その上、相手はいるのかいないのか潜って何も言わない。
私は昔から、自分に売られた喧嘩と同様に「トモダチに売られた喧嘩」にも同程度に反応する。即ち、怒りが炸裂するのである。
だから、その相手(以下A)が浮上した時、私は俄かに喧嘩腰になったのである。向こうも最初から喧嘩腰だったからである。これはもう「決斗」しかない、そう思ったのだ。
しかし、「トモダチ」にとっては違った。私を引きはがし、追い出し、あとから
「あの人は優しいからいいけど、他の人なら喧嘩になってたよ。もうあなたは傷つくのは見たくないよ、やめてよ」
私はそちらの方が傷ついた。私のことは切らないけれど、という一言も傷ついた。相手にああまで悩んでいたのに、事ここに及んで悩むのは私の首が切られるか、切られないかの話。
やっぱり私は犬神なのね。そんな気がした。いいように扱われて、邪魔っけになったり手に負えなくなったら首を刎ねられて。
おぉーん。
3日間私はおかしくなった。振り上げたこぶしは自分の顔をしこたま殴った。病院の入院患者たちが恋しくなった。ヒロさん、ヒロさんと慕っていた姐さんが恋しくなって仕方なかった。
私には地元の友達も、子供のころから私を知る人間もいない。皆私に怨念を持たれて往んでしまった。東京に行った子、入院した子、詐欺をしている子、水商売をしている子、水子を何人も背負っている子、死んだ子。
そう誰も「私」を理解せず「怯え距離を取り逃げている」。
そんな人間が人を守ろうとしたとて、その拳は自己満足の凶器にしかならず、結局厄介者の拳でしかなかったのだ。
「あなたが傷つくのが見たくない」んじゃない。
「私の友達を傷つけないでよ」
だったんよね。私があなたを助けよう、矢面に立とう思た決意がいらんかったんよね。
おぉーん。
「自分軸」は「自分の判断で選んでいい」ということ、らしい。じゃあ、無残に切り捨てられた屍の気持ちを顧みたことはある?
ないんだろうな。ネガティヴになるから。
振り上げたこぶしは、また自分を殴った。