"読書好き"というアイデンティティ

私は、いわゆる活字中毒だ。
とにかく読む。読んでたい。何もなければ、看板やレシートも"読む"。
そして書く。何かとメモを。いわゆるメモ魔だ…。

そういう自分を、けっこう長いこと、イヤだな、と思ってきた。
なんか執着しすぎだし。しょっちゅう、意識がズレて変なことになるし。
でも変えられない。気づいたらそうで、ずっとそうで、「息を吸う=読む」だし…


私は、"読み好き"な生き物なのだ。
"今ここの自分"から抜け出し、違う世界に行きたい。違う世界に触れたい。そこにある何かを見たい。

"現実の自分"は、いつも全体を見れない。あわあわ、あたふたと、ただ何とか生きようとしてるだけ。
文章化されたものはーーーひとまず何かの形になっている。
どんなカオスを描いても、文章になっている以上、人間の脳内のわけのわからないごちゃごちゃよりは、"形"になっている。


言葉にならないことはたくさんある。
無理に言葉にする必要のないことだって、たくさん、あるんだろう。
文章化されたものは、"文章化されたもの"の範囲内でしかないわけだけど… 
そこには世界がある。何らかの、ひとつの世界が、作られているんだ。

それが好き。それを見せてもらえるのが。


なんかもっと明るい、人にウケそうな、社交的な趣味の方がよかったな、とは、ずいぶん思った。
でもそれもどんどん無意味になっていく。
若い頃からすでに時代遅れだった"活字中毒"として、長く生きてしまえば。
もうこれは、"そういう生き物"としか言いようがない。それに対して、私がどう思ったとしても。

それをいいとか悪いとか言う隙さえないほど、私はそういう生き物で、そう生きてきている。
だから、これはもう私のアイデンティティなんだな、と、思うのだ。


生きやすいかというと、あんまり生きやすい生き方な気はしない。
それでも、肝心な時に、私を守ってくれたのは、この習性だったんじゃないか。
どうにもならずに辛い時、何とかして何かを読もうとする癖が、私にとっては、ワラや杖や石になってきたんじゃないか。


こういう宗教に、生まれながらに入信してるってことなのかもしれない。
ただの一人の人間でしかない個人にとって、何の宗教もなくこの世を生きるのは、正直、「無理では?」と思う。かなり本気で。

誰もが何かを信奉している。
"いわゆる宗教"でなくても、生きていれば、何らかの影響を受け自分もその考え方になる、"入信"みたいなことには、どうせなる。
オリジナルな考えを持つことはできない。
何にも入信せず、独立して生きていくことは、まあ私には無理だ。

ならば、この宗教は私に合っている。なるほど私はこの派だな、と思える。
なので、とりあえず、死ぬまでこの宗派で生きようか、とは思っている…


それを自覚して生きていきたい。
もうこれ以外の人生は私にはないから。
バランスの取り方を探って。
そのためにはあらゆる手段を尽くして。
こういう人として、生きていきたい。

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