準備

 何事もなかったかのように始まった新学期水曜日、まだ春休み気分で曜日感覚が分からない。春休みは休みらしい休みもなくずっと何かしたりどこかへ行ってたので予定のない時間をどう過ごすか分からなくなっている。
 学食は新入生で座る席もないので友だちとスガキヤへ行くけどそこも大忙しで早く食べないといけないような気がする。一年前は意気揚々と毎週末にスーパーへ行って自炊をしていたけど今はそんな気すら起きずに外食、もしくはレンジフル活用の夕飯。

 去年の5月に団体をを立ち上げた。演劇がしたい、自分の作品を作りたいという気持ちから既存のサークルではなく身近な人を誘って水曜5限の授業終わりに11号館1階の変な形をした椅子に座って限りなく小さく、それでいて尊大な夢を持って活動を始めた。
 高3の受験期、放課後は毎日顧問のところへと行って志望理由書に付いて考えていた。それまで何となく場所があって、Twitterで調べたらWSや公演の情報はそこら辺に転がっていたので親の目を盗んで何度も京都へと出かけていた。それでも自分の土地ではないところで活動をするにはもっと準備が必要だった。一度顧問から”それなら趣味としての演劇でいいんじゃない”と言われたがその時は突発的に少しの怒りを含んで否定した、心の中で。
 活動を始めてからも自分の思い描いたような活動ができたことはなかった。暗中模索になることは分かっているつもりだったが、生活や学業、人間関係に大学という土壌。段々と自分の道が狭く、それでいて気付かぬうちに誰かに決められているようだった。
 ”そんなもんだ”
何度も心に刻まれた”こんなはずじゃなかった”を受験期の自分を否定することで受け入れられるはずもない現実を受け入れたつもりでいた。劇的でなくとも今から根を張ればどこかで必ず取っ掛かりが見つかると思っていた。それでようやく見つかったのが春休み中の東京でのクリエイション。そして改めて東京へ行こうと思い、明日それを先生と話す。
 張った根から何も得られていないことと自分自身それにもう絡み付かれていることでこの場所に残るという選択も何度か浮かんだが、ひとり、誰にも属さず何にも絡まれたくない僕はここを出ろと夢の中でも言いやがる。”何の準備もしていない人間には何も供給されない”夢の中で明日話す先生が言っていた。そう言われると思ったのか、自分自身にずっと思っていたことなのか。そういえば夢の中で言われているあいつも僕に似ていた。

 僕が立ち上げた歌吹海という団体の名前は僕が机にメモとして残した単語の一つでした。何となく海の入る単語を調べた時に語感と使われている文字、ネットで調べてもほとんど情報がなく、その内ネットで”歌吹海”と打てば僕たちのことだけがヒットしている、そんな風にしてやろうと思い場所も人も決まっていない時に日記の表紙にこの言葉を書きました。
 コトバンクによるとその意味は「歌舞、または遊興のさかんなこと。または、その場所。遊里」と出てきます。正直意味はピンと来てませんでしたが、誰かの集まれる”場所”を作りたいと思いそれを団体名として名付けました。誰かと繋がれる、共に楽しむことのできる場所を作ろうと思ったのは今の劇団員と出会ってからです。
 この度、主宰が僕から他の人へと移ります。人が変わるということはそれらが織りなす集団も変わるということ、そして”居場所”というものが持つ力も変わるということです。これからこの場所がどう変化していくのか、どんな人間が関わっていくのか、それは本当に楽しみで仕方がありません。しかし、私が無意識的にでも拒絶したここの土壌は全ての人への平等と公正が保障されていません。そしてそれに苦しんでいる人を一年だけでも何度も見ました。僕がこの場所に引っ掛かっているのはそれを度外視できないからという側面もあるのでしょう。これは拘束でも強制でもありませんが、その人たちを見逃さないようにしてください、それは自分自身も含めてです。自分だけの失敗や苦しみを他人と共有することは極めて難しいことだけど、万が一目の前にそういう人が居たのならばちゃんと見続けてほしいです。あなたの目の前に現れた人だけでもいい、ちゃんと人に寄り添うということを覚えていてほしいです。

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