終演しました
本日、無事に学祭公演を終えることができました。毎度毎度、”無事に”という言葉を僕は意識的に使うのですが、今回の製作もまた様々な危険に晒されながらの活動になったので”無事に”終えることができて、本当に良かったと思います
・公演に関して
どれだけ稽古場で作り込んだものがあっても、本番の魔物はやはり存在することを今回改めて知らされる結果となりました。学祭公演という周りも落ち着かぬ環境の中で俳優たちはもちろん、観客も中々落ち着けない中での公演でした。
予想を上回る当日券発行により、増席したり立ち見席を作ったり。それでも、途中で帰ってしまう観客もいたり。
当日運営に関して、大きな反省点は本番のイレギュラーに対応できるだけの準備ができていなかったことです。常々感じていた運営側との摩擦は俳優の準備や、公演自体の安全性への侵害という形で表れてしまったと思います。須く、自分たちでも対処できる部分や妥協しないといけなかった点は大いに存在したと思います。
・作品に関して
演出、脚本をした人間は本番が始まってしまうと全くすることがありません。ただ、後ろの方の席で観劇する観客と何も変わらないのです。ですから、僕はここで一つ、この作品がどんなものなのかをフラットに観劇してみようと思いました。
少年期の頃、”ガイジ”や”ホモ”なんて言葉が差別的な言葉として、教室内でよく飛び交っていました。もちろん、先生はその度に注意をします。作品が中学生の友人と再会する成人式という設定だからか、そんなことを思い出すタイミングがありました。
僕は特に最近、パーソナリティー障がいや、ADHDなどの発達障害、またはジェンダーに関する単語を多く覚えました。その知識がある上で人と関われば普段抱えているモヤモヤや苛つきも「ああ、この人はボーダーだからこうなるのも仕方ないか」などと考えれるようになるのです。ここしばらくはそれが良いことの様に感じ、本人に言うことや過度にこの人はアレか何て考えることは控えていましたが、僕の中で良かれと思った区別は単なる稚拙な差別だったのだと、観劇中に恥ずかしくなりました。
生きにくい世の中を生きるために、もしくは少しだけでも生きやすくなるためにと思って製作をしていましたが、僕がしていたのは自分が生きやすくなるための他人に対する決めつけだったのだと、舞台から目を逸らすことがありました。
劇中の言葉で「でも、どうしたらいいのかが分からない、どうしたらあなたが生きていることを受け入れられるかが分からない」という言葉があります。書いた時は色々と悩み、答えが出せない自分に焦りそれならばと変に言葉を取り繕うことなく自分を素直に受け入れた中でそのままぶつけてやろうと思い、書いたことを覚えています。ここにある”あなた”は元々、”私”だったのですが、作中にイマジナリーフレンドを作ったこと、観客に言葉を投げかけるときに一人称を用いて当事者意識を押し付けるよりもこちらの方が直接的なメッセージになると思いました。
自分で読んでいる時と、俳優が話す時では同じ言葉でも全く意味が違う様に感じます。今でも今日の言葉をまだ上手く消化できていません。簡単に触れるモノでもなさそうですが、もう少しだけ抱えて生きようと思います。
大学に入学した翌月に不細工ながら劇団を発足し、約2年が経ちました。僕は今回で劇団を離れます。規則や雰囲気、大学内での立場など、なかなか演劇というものが受け入れられにくい環境ではありますが、今までに力を貸してくださった方々には感謝しかありません。また、今後も団体の活動は続きますので劇団員にはこれからも頑張ってほしいなと思います。困難なこと、苦しいこと、逃げ出したいこともあると思います。それでも演劇の楽しいや好きを、少しでも大きくして多くの人に共有していってほしいなと思います。