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本当にハタチになれますか

 公演が終わりそういえばもう7月だってことに気づき、それからもう2024年と言うのに慣れてきたこともそれがあと半分もないことに気付く。本格的にこれからの自分よどうする、と放り投げた疑問はどっかの道端に落としてしまった。
 総合大学などではテスト期間の7月中旬、どういう訳か僕は今週一度も授業がない。月曜日は休みで火曜は元々全休、それから休講や飛んだ講義があって、全く学校に行かずに1週間を終えてしまう。なんか焦る。
 今週の自分よ、君は何をした。
 東京で観劇してから本読んだり、なんか映像観たり、バイトに行ったり、流石に焦って放課後の空き教室で踊ったり。やばい、何もしてない。冷蔵庫は空っぽだし、LINEやDMで話してる人はいないし、全く誰とも会話をしない日がコロナ初期の頃以来に起きた。当たり前に生活リズムはどっかから狂って、今日もまたこんな時間まで起きてる。まだ4時なのに空が明るいもんだから余計に何か悪いことをしているような気にさらされる。

 話さないということはまだいいにしても、誰の声も聞けないというのはかなりのストレスである。携帯や読書中に流れる頭の中の音声ではどこか情報が出鱈目で何も得られた感覚がしない。
 それでも今日、にしなの新曲が聴けてそれを何回もリピートしているのでギリギリ耐えた、という感じである。

 明日は夕方から夜にバイトでそれ以外は自由時間、明後日も稽古はあるけどそれ以外は何もない。どうしよう。
 バイト中に食材の賞味期限を書いているとそういえばもうすぐ誕生日がやってきてしまうことに気付く。夏休み突入の最初の週に誕生日がやってくるので高校生になるまで誕生日を祝ってもらった記憶がそこまでない。いや、あったのだけれど姉たちや友人から聞く誕生日という1日と、僕のそれの1日とでは全く違うものだったのだ。
 幼いときはそれが恥ずかしく悲しくて、自分で自分の誕生日を記憶していないフリをしていた。そうすると不思議なことに本当に誕生日が来ても全くそわそわしなくなり、忙しい初夏を過ごすといつの間にか年が一つ増えている、そんなことになるのだ。

 初めて誕生日をそれらしく祝ってもらったのは高校一年生の頃。コロナにより夏休みの開始が遅れた影響で僕の誕生日は高校で初めてのテストの最終日だった。そしてたまたまその日、テストお疲れ様会に呼ばれて、なんでか分からないまま誕生日を友人たちに祝ってもらった。家に帰った後、冷蔵庫にジュースが大量にあるのが嬉しかった。

 20歳を迎えるということの意味合いは少し変わったのだろうけど、それでもかなり大きな節目ではあると思う。社会に属する人間としてもその扱いは大きく変わるし、その影響もあってか自分自身でも何か10代の自分から変わらないといけない、変革期にしないといけないと思う。それでもどうすればいいのか分からないという相変わらずさ。今までは衝動的で何かやる気が起こった時に行動を起こして色んな選択をしてきたけど、これからはもっと長期的で習慣的に自分を抑制しないといけない。それは漠然的で何をすればいいのかよく分かってない。少しずつ変えるしかないのかとは毎度毎度思っていることだけど、緩やかに自分を変化させていく、長期的に誰かに影響を与えるというのが上手くいかない。振り返ってみればもちろん細かな変化も大きな変革期もあったのだろうけど、それがなぜ起きたのか、どうすればモアベターになるのかがいまだに分からずに猪突猛進状態。それでいいのかもしれないとも思うけど、それだと投げやりな気がしてやるせない。またまた疑問がそこらへんに散らかってる。やはりちょっとずつ拾いながらやっていくしかないのだろうか。

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