モラトリアム

 高二の学年集会で日本史担当だった学年主任が「モラトリアム」って言葉どこで聞いたことある?という話をした。相変わらず横を見たら早く話を終わらせて欲しそうな生徒が学院歌をボーッと眺めていて隣の友人は必死に悩んでる。多分、僕も聞いたのはそれ以来。
 一コマだけの金曜日、大学生にとっての知識と経験、そのバランスについてディスカッションする。何となく即決で知識の方が重い、に回答。どちらも同じような重さとも思うけどその回答は面白くなさそうなので辞めた。
 他の班がディスカッションを繰り広げる横でその話の粒を自分の頭の中で反芻して少しずつ自分の意見を端的に、まとめていく。金曜日は基本的にオフモードがついたままで脳みその摩擦が強い。
 自分たちの順番になり、まだ見覚えがある、程度の学部生の横に座る。するとその見覚えのある人がファシリテーターを断定的にしてマイクをいつもの彼に渡した。ウチの学部はどこか不思議な集団性があって、クラスのように誰も断定はしない役割が何となく各人に振り分けられていたりする。彼は真面目でいつも前に出る人、行動や資質がそうだとしても最近その扱いがいささか強くなりすぎてる。同じ講義を受講する回数が多いせいかもしれないが、相手の実情は知らないけど彼のイメージ像だけは日に日に形をなしていく。それが複数人と共有できたものならそれは共通の彼への認識、彼のキャラ設定の確定だ。

 これは悪いことじゃない、悪いことだと認識できない。知識としてそういった扱いを嫌がる人がいるというものがあっても、自分が他人からどういうキャラ設定をされていてそれに対して自分がどう思うかは誰とも共有できないから。失敗した経験は次の機会に良い影響をもたらす、それは非常によくわかる、ごもっとも。でも、経験できない、感触を得られないということも時たま発生してしまう、今日発生してしまった。その感触の得方は人によって違うし、得られない人もいる、得られなければ何もない。
 僕は今日高校の後輩と部活の関係性について話し、そこで自分たちの代で発生した問題とも課題とも言えない粒が最後の最後まで関係性に摩擦を生んでいた話をした。その後シャワーを浴び、身体をタオルで拭いている時に今日の出来事を思い出した。
 

 今日も夜更かし、眠らずに自分の中で明日を迎えなかったらちょびっと嫌だった今日も最後の最後でいい日に変わるかもしれない。それがたまたまやってくるかもしれない、でも何か行動すればまた嫌なことが入り込んでくるかもしれない。いいことよりも悪いことの方が敏感で重い、大学生活。明日はいいことあるかなと思いながらちょっと嫌な今日を繰り返す。昨日の昨日の昨日、数週間前のあの日に友だちと天津飯を食べたあの日は楽しかった。そんな思い出を削って食いつないで今日もどちらかと言えば苦しい1日を終える。食器を洗いながら今日の楽しかったことを思い出そう。


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