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止まった日記

ここにいる間、もう少しだけは我慢の期間かなと思うんです
そうは言ったものの結局この数ヶ月の間でしていたのは我慢なんて忍耐的なものでなく、自分の中の脆いものを守るだけだったように思います。それは少し先の未来に賭けた夢であったり、稀有な経験から得た知見やそれを昇華させるための僕の今までに蓄積したもの。
高校時代によく言われた”消費的”というものがどういうものか、どういった行為が消費的だと言われるのかは未だ分かっていないが、感覚として僕は消費されていっていることだけは分かります。
もう少し先にやりたかったことは遠い未来の夢になり、僕自身は芸術という名の前に搾取されて、自分の誰かの脆いものを崩していっているような感覚だけが残っている。それは作品にすることもnoteに書くほどのものでもない。というよりも、誰かに見られているという感覚、他人の脆さなど甘受できない環境ではこのnoteを続けることは少し難しかったのかもしれません。

僕のやりたいことは皆と違う。一番初めに感じたその小さな違和感は2年で肥大化して僕はここには居てられないという結論に至ってしまったのです。
数ヶ月後にはここに居ないかもしれないという小さな希望のような未来に今を無駄にしていること。きっと今の環境でも何か学べることはあるという祖母の言葉は言われる前から何度も自分に言い聞かせては来ましたがそれだけはここで息をするのは難しく、グッと息を潜めて周りを見ないようにしていた期間も私にとっては我慢の期間であったのかなと思います。

何も成せずに終わる。その恐怖は日に日に大きくなる一方で、しかし何をするにも力がない、助けが無い。どこで誰と居てもやはり自分はここにいるべきでは無いのでは無いかという気持ちが大きくなっていきます。
バイトをしていても生活費を稼ぐためにやっている、社員のように何かここでしたいことがある訳じゃない。恋人と居てもこの人には僕以外が存在する過去と未来がある、彼女を思い出にはなれない。講義を受けていても僕は焦りしか生まれないのです。あれだけ無駄だといった理科の勉強を教科書を眺めながら聞いている方が、単位のために出席してゲームをするよりもいい。
矮小な出来事でもそれが重なって油断した時に出てくるネガティブによって環境に馴染めない自分に嫌悪感を抱きます。

今日は体調が悪いのです、昨日から鼻水が止まらず喉も痛んできました。こうしてnoteにただ文字を並べるのも気まぐれです。ちゃんとした文章を書けないのなら公開すべきでない、パソコンを開くべきではない。
ちゃんとした作品が出せないのならここでは作る必要などない、それよりも危険が高い。

戯曲を作っている時、僕は作り出したキャラクターに愛着が湧きました。それは今まで人には向けたことない感情でした。しかし、それが人の手に触れ、蔑ろに扱われると久しぶりの怒りがやってきました。
ヘッダ・ガーブレルで自分で作り出した本を「私の子よ」と話す場面がありますが、その言葉よりももっと前衛的な感情が自然に湧いてきました。
僕は孕むことも産むこともできません。これこそ危険な表現かとは思いますが。
僕はこの愛着と怒りが子を授かることと産み出すことに似通っていると感じました。もちろん経験することは到底叶わない代物なのですが。

公演までもう少し、それが我慢の期間になるかは終わってからでないと分からないでしょう。既にあの怒りや小さな違和感がここでこの子を産んではいけないと言っているように感じます。それはその通りでしょう。しかし、僕のまだ生き残っているプライドはこの場所で一度は自分の作品を出してみたいと叫んでいるのです。

長い間、noteを書くこと、読むことから離れていましたが気まぐれに少しずつ書いていこうと思います。

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