0叉路

 彼が、自分は人間ではない、と初めて悟ったのは数年前だ。そして、数か月、数日おきに悟っては忘れを繰り返している。こんどこそ忘れまいとしても、ぎゅっと固めた認識は現実に溶けてしまう。遅鈍な彼には一日が速すぎて、追いつくのに精一杯で自己を忘れてしまう。これに気づくたびに彼は、数字の0を鈍器に見立てて時間軸をバリンと割ってしまう妄想をするのだ。些か気は晴れるが、依然として曖昧の影は泳ぐ。
 彼は現実を超越できない自分に焦っていた。理解という枠組みを超えた完全に新しい自己の顕現を達成できない自分に嫌気がさしていた。これのいかに無謀で愚かな事か、彼自身も知っているのである。それでも、そんなのはつまらない常識で、異常な構築の末に認識として実現できるだろうという信念を持っていた。全ては認識である。自分があって、対象物があって、それを認識するのではない。まずは全体としての認識があり、ここから自分が切り出されるのだ。だから、世界の全部も認識で、どうにかすれば書き換えられるはずなのだ。彼は一日一絶望というテンポの良い絶望に陥っては、
「それでもなお!」
と無限の迷いと苦痛の中に戦う決意をする。体は何故か痛くて、日常の事は何のやる気も出ない。それでも現実は、彼の本当に求めることを提供しないのだから仕方がない。あきらめの悪い未熟者の目は、どこか遠くを見ていた。

 そんな日常の中、彼はいつものように絶望の時間を迎えて、どうにもならないから散歩にでも行こうと思い立った。服を着るのに30分、鍵を手に持つのに5分、扉を開けて外に出るまでに10分かかった。それでも外に出てみると、どうしても心地よく感じてしまう。彼は、自然が好きなのだ。どのくらい好きかというと、大学で物理学を修めたくらいに好きなのである。それでも現実から逸脱しようとするのだからどうにかしている。風に揺れる緑色の自嘲を嗜みながら、彼は自作の歌の一節を口ずさんだ。
「歪な影を願う揺らぎの鏡で、晴れを遠のいた・・・。」
彼にとって言葉は、意思疎通のためのものではなかった。

 さて、そろそろ帰ろうとなって、彼は世界をぐわっと180度回した。その座標変換で、彼は困難に直面することとなった。目の前に、いたのだ。
「あの、さっき歌ってたのって、なんていう歌ですか?」
class0/cl だ。またの名をヒトという。それにしても、挨拶から入ってこなかった。直接要件を聞いてくるのは効率が良いから、別に相手によく思われようとしないならこれは賢い選択ではある。いや、効率というのは色彩を殺してしまう。文章の冗長性は時に概念の音色を生み出し、それが深く滑らかな味わいとなって心を擽ることがあるというのに・・・いやいや、そんなことより早く返事せねばならない。
「自分で創ったやつです。まだ未完成ですし、名前も決めてないです。」
彼は愛想笑いには自信があった。自分を守るため、ほとんど自動的に会話中に笑顔になるようになっていた。しかしあまり人が良いと思われても困るから、会話の流れ的には不自然ではあるがここで立ち去ることにした。が、許されなかった。飛んできたナイフは下記の通りである。
「すごいですね!浸食の法則は立方体へ丸まったのではないのですか?」
完全に失敗した。こいつ、やはり頭がおかしい。明らかに初対面の人間に問いかける文言ではない。自分の事を文豪だと思ってるのか?それともそういう仕事に就いているのか?いや、そうは見えない。目は子供のように輝き、それはそれは純然たるキラキラである。彼は混乱してしまって、目の前の意味不明に対して鏡を掲げた。
「雷光の悴みは瞬時に行き渡り、それでもなお、影に散りばめられた崇拝は後に目となって咲き誇るでしょう。nifuのsohrefiaは繁茂する秘匿ですが、それは懐かしの見知らぬ歌を空輸する可能性を棄却し得ません。」
後悔の蕾は憎いほどスムーズにほどけ、心の中で八重咲となった。
「これは他人に使う言葉じゃない。自身の認識を改変するためにあるのだ。しかも、やけになって何の面白みもない文章を漏らしてしまった。いや、別にいい。ああ、これだから嫌なのだ。私は他者の評価ではない。別に自分が何を失言したところで、勘違いされたところで、自分自身は一切変化しない。これを実装できていないことを叩きつけられる。私の、なんと、未熟な事か。」
彼はもう耐えられなくなって、恥ずかしくなって、ローレンツブーストをかけた。それでも例の他人は、なぜか追いかけてくる。いや、そんなわけがない。こんな自分みたいな人間に興味のあるものなどいるはずがない。そうだ、きっとたまたま行く方向が同じなだけだ。そういうことは往々にしてある。そうして彼は決して振り返らないようにして、そそくさと自分の借間に戻った。
「アパート同じなんですね!」
A101のドアの前に意味不明が立っていた。彼は茫然となって、A102のドアの前に生えていた。


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