コロナ禍で存在を消された私たち 私が感染した理由
検査難民
発症月:2020年3月
ペンネーム:おくら
はじめに
2020年3月上旬という割と早期にコロナと思われる症状を発症した私は、当時その理由を「自分が先に経験することで対策を探し、同じように苦しむ人の症状を少しでも和らげるため」と理解するようにしていた。
そう思い込まなければ、心も体も保てない程の状態だった。
発症10日頃に肺症状とひどい水下痢が始まり、そこから液体のみしか口に出来なくなる。みるみる体が弱っていき病院へ行くと、感染者扱いされるものの「心因性」で片付けられる。
しかしさらにその後の激しい体の異変続きから「命に関わる、死人が出る」と感じ、自分なりに対処法をまとめてTwitterで公開しようと決めた。
作った資料の内容は、同じような症状に苦しむ方とやり取りさせて頂いて得た情報を、自分で試した上での対処法に絞った。痰が絡んだときは上半身を起こして休む、発作時の緑茶、症状に対するツボ押し、日光浴、手浴や足湯など、あくまでも気休め程度の情報であった。
資料作りで久しぶりにパソコンと向き合ったためか、作成後に体調がひどく悪化してしまい、ベッドから6日間ほぼ身動きが取れないほど体は死へと向かっていった。
それでも後に僅かながら参考にして下さった方もいたと知り、身を犠牲にしてでも作成して良かったと思っていた。
次から次へと新たな耐え難い症状が始まるのは、自分が全ての症状を経験し、自身の体を実験台にして対処法を見つけ出し、他人に少しでも対策を提示するためでは、という思考回路になっていた。
このように、発症初期の頃までの私には、自己犠牲の念が強くあった。
2021年1月1日、私の意識は大きく変わる。コロナに対して心から感謝の想いが湧いてきた。
私がコロナに感染した理由は、他人のためではなく、自分のためであったと気づいた。おそらく生まれる前から自分で感染すると決めていたのだとーー。
症状経過と医療とのやりとり
ここからは、症状の経過と、保健所や医療とのやりとりを記載していく。
2020年3月上旬、突然の発症。前日まで元気に動けていた。初日は空咳と悪寒、水を飲んでも全く潤わないカラカラとした喉の乾き、夕方から37.0度の微熱(平熱は36.0度前後)、全身を鉛で押しつぶされるような倦怠感で寝返りもできず腕すら上げることができなくなる。初日から食事は通常の半分ほどしか食べることができなかった。
数日後から透明で粘着性の痰があふれるように出始め、喉に絡み息苦しさが始まる。この異様な痰は口の中でベットリとまとわりつき、喉や肺の上部に蓋をされるような感覚で、横になると息が出来なくなった。そのため一晩中体を起こすことに。その日は全く眠ることができなかった。
発症から10日頃、それまでの痰による息苦しさとは異なり、肺機能の弱さによる息苦しさが始まる。息が吸えないというより、呼吸をしても少ししか空気を処理できず、肺が弱くしか機能していない感じで常にくるしい。食事を摂ろうとすると息が止まり空気が吸えなくなり、その日は固形物を食べることを諦めた。
次の日から腹痛とひどい下痢が1週間続き、液体しか摂取できず体がどんどん弱っていく。
この異常な異変続きから、自分の中では「新型コロナだろう」としか思えなかった。
それでも37.5度以下は自宅待機という「国の4日間ルール」をしっかり守り、家族の顔すら見ずに徹底して隔離して過ごしてきたが、肺症状と体の弱り方には不安を覚え、まず保健所に電話をかけようと決めた。しかし保健所にはなかなか繋がらず、何度も何度も電話をかけてやっと繋がった。
《保健所の対応》
ある程度の症状を聞かれて答える。
「◯◯という紹介所があるのでそこに電話してください」
「このこと(他の機関を紹介したこと)を他では話さないでくださいね」
と言われる。
《紹介所の対応》
紹介所もなかなか電話が繋がらない。やっと電話が繋がり、症状や事情を話すと困ったような反応をされる。ここは受け入れてくれるかもと、まず医療機関Aを紹介される。念の為あと2箇所探して紹介してくれた。
その3件とも近所にある内科やクリニックだったため、この紹介所へ電話した意味はないと感じたが、紹介された医療ならば対応してくれるのではと、希望を抱く。
「受診前に事前に電話してから」と念を押されたので、紹介して頂いた医療機関に電話をかけることにした。
《医療機関A》
ここは大丈夫だと思うと言われた医療機関Aに希望を抱いて電話をかける。
事情と自分の症状を話し始めると、
「来ないでください。うちでは診れません。勝手に来ないでくださいね!」
と言われ、半ばキレ気味にガチャンと電話を切られる。
肺が弱く話すと苦しい上、これまでの電話のたらい回しですでにかなり体力を奪われていた。そこにさらにこんな仕打ちを受け、気力を失いかける。
しかし、今、対応しなければと、気持ちを入れ直して紹介された2つ目の医療機関に電話をかける。ここは家からも近く過去にも受診したことのある所だった。
《医療機関B》
断られる前提で電話をかけ、事情を話した。「来ていただいても良いですよ」と言われ、「え、診ていただけるんですか…?大丈夫ですか?」と思わず聞き返してしまった。
タクシーは避けたかったので自転車でヨロヨロと漕ぎながらすぐにこの病院へ向かい、受付で事情を話しどこで待てば良いかと聞くと、「待合室で待っててください」と言われる。隔離されないのか…と思い、なるべく人の少ない隅を選び、椅子に持たれてぐったりと待っていた。
看護師さんがやって来て、隔離部屋に案内され、まず隔離されたことにホッとする。そしてお決まりの文句が始まる。
「海外渡航歴や濃厚接触者は〜」
そんなものは、ない。
ただ私には、感染経路と思われるものがひとつあった。
私より先に親族が発症し、物資支援に行った数日後に私の体調が突然おかしくなったのだ。
接触はしていないし、当時は空気感染やエアロゾル感染も否定されていた時で、物資支援する場合は2m離れればOKとテレビでは流れていた。そのため、念の為5mは離れた距離でその親族と手を振っただけだ。ここで感染したとは当時は考えにくかった。
他にもその時に買い出ししたスーパーの空気がやたら悪かったこと(その後、そのスーパーで感染者が出て閉鎖されていた)、その時に使った公共交通機関で空気が悪かったこと、それ以前に乗った電車内でひどい咳をしている人がいたなど、いくつか思い当たる節はある。
感染経路を話すと看護師さんは顔色を変え、メモを書き、時々パソコンで情報を調べながら熱心に話を聞いてくれた。感染したと思われる場所が、すでに感染者が出ていたと噂されていた地域だったためである。
問診が始まる前に看護師さんが私の症状などを簡単に医師に説明し、簡易的な血液検査とレントゲンを撮ることになった。医師は私の話を聞く気もなく、嫌そうな顔をしてなるべく私から体を遠ざけ、明らかに私を感染者扱いしていた。
検査結果が出て問診が始まった。炎症は起きておらず、レントゲンも問題なかった。発症から既に2週間以上経っていたせいか、
「風邪をこじらせている」
と医師が言った。
さっきまで熱心に私の話を聞きPCR検査を身構えるような雰囲気を出していた看護師さんは、医師のその言葉を聞いた途端に私への態度をコロッと変え、
「息苦しさは気の持ちようだよ。ほら、深呼吸して」
と言い放って姿を消した。その医師もカルテにササッと記入したら私に何も言わず診察室から逃げるようにすぐに立ち去ってしまった。
私は1人部屋に取り残された。しばらく待っていたが医師も看護師さんも来ず、受付へ行き事情を話しどこで待てば良いかと聞くと「普通に待っていてください」と言われる。人の少ない場所を選び隅で待っていると、看護師さんが来て隔離部屋へと戻される。
「会計もここ(隔離部屋)で」
「薬局は感染者用の入り口があるからそこから行って」
と言われる。
こちらとしては他人に感染させたくないため隔離対応された方がありがたいが、風邪と心因性という診断結果にも関わらず感染者扱いという対応の矛盾に、気持ちが大きく落ちてしまった。
あんなに息が苦しくて辛い中、何のために病院に行ったんだろう。風邪じゃないの?心因性じゃないの?なんで感染者扱いなのに検査はなし?
診断結果と矛盾な対応をするのではなく、「コロナの可能性は否定できませんが検査対象ではないので引き続き自宅療養して下さい」と素直な言葉を言えないのだろうか。
この頃すでにTwitterでは、同じような症状に苦しむ方が病院に行くと「心因性」と言われ検査を断られていた情報が流れていた。
私にも同じ状況が降り掛かったんだなと、内心悲しい笑いが込み上がっていた。
《受診後〜発症21日まで》
すでに1週間液体のみの食事だったが、この後もさらに1週間ほぼ液体のみしか口にすることができなくなる。
寝返りを打てない程のピキッと激痛の走る筋肉痛や関節痛。動悸と肺にガラスが刺さる痛みや、呼吸するたびに肺が痛む。全身の強い痛みと呼吸痛と戦い悶え苦しんでいたら、一睡もできないまま朝になっていた。
睡眠は1時間眠れた日があったとしても、幼少期からの走馬灯のような悪夢の連日で何度も目が覚める。
まるで人生の最期として、自分の記憶の断片を順番に見せられているような毎日だった。
発症21日目は、死を覚悟した日である。遺書を書く余力もなく、自分が生きた証にと、家族にTwitterアカウントを教えた。
この日の朝、右腕の神経がプチッと切れた感じがし、そのまま指先までブワァっと感覚が消えていき、右腕が付け根から重くだらんと垂れ下がり全く動かせなくなった。まるで人形みたいな腕。
緑茶を飲んで腕にホッカイロをたくさん貼って、ジワジワ、ジワジワと感覚が戻ってくる。
心臓も肺も常にいっぱいいっぱいで限界までバクバクし、必死に耐えたと思って時計を見るとたったの10分しか経っていない。
これがお昼から次の日の朝まで続く。
「ダメだ、もう頑張れない、死ぬ」
と何度も思い、今夜が山場だと感じる。
こま切れの睡眠をかき集めても1時間未満、制御不能の全身大きくガッタガタとした震えがこの日から3日続く。
《医療機関C》
2020年3月下旬、発症23日目のこと。
心は死を覚悟したものの体が頑張り続けてくれたことで山場を乗り越えた発症22日目に、体感が変わっていた。自分の中では抗体が出来たという確信があった。しかし、頭が狂ったかのような終始激痛の頭痛や、食事も摂れず大きなガタガタ震えも続いて眠れず、体のエネルギーが完全に尽きてしまった。
家族に「もう、ダメだと思う…」と声にならない声で伝え、救急の病院へ連れて行ってもらう。
足に全く力が入らず自力で立つことも出来ず、車椅子が用意されたが座っていることは難しく、看護師さんたちに抱きかかえられてストレッチャーのベッドで寝かせてもらう。人が集まってきてバタバタと手際よく点滴や採血などが緊急で始まった。
体は完全に脱力しているが、ストレッチャーの上でも突然体はガクガクと大きく震え出す。
視界もぼんやりとし声を発することもできなかったが、不思議と周囲の会話は鮮明に聞こえてくるのが印象的だった。
「なんでこんな状態になるまで病院に連れてこなかったの」
と、看護師さんが家族に話しているのが聞こえてきた。
その時の熱は37.5度、リンパ球数は900まで落ち、血液検査でいくつか異常値は出ていたが、脳CT(肺CTを希望したがうまく伝えられず撮ってもらえなかった)やレントゲンでは異常なしでコロナやPCR検査という言葉すら出なかった。
医師との問診のとき、当時野球選手が感染したことで話題になっていた「嗅覚異常」「味覚異常」が私にもあったのでそれを伝えたところ、医師は「うーん」と言葉を濁し、コロナの可能性を否定もせず肯定もせず、
「でも検査はできない」
とだけ言った。
変にコロナを否定されないだけ、こちらとしてはとてもありがたかった。
その時、連れ添ってくれた家族が
「心因性の可能性は?」
とその医師に聞いていた。こんな状態になっても、家族は私を心因性と疑っていたことにショックを受けた。
会計待ちのためストレッチャーで寝ていた私にベテラン風の看護師さんが急に近づいてきて、
「どうしたの?何が不安なの?」
と少し笑いながら強めに聞いてきた。
その言葉に私はひどく傷ついた。その方は私のことを「心因性」として接してきた。
この病院で私に長く寄り添ってくれた看護師さんはとても優しく、かすれ声の出るようになった私が感染経路と思う一つを話し始めると、表情を変えて詳しく聞いてくれた。
その話をベテラン看護師さんも聞いた途端、私の不安要素や心配事を聞くことをやめ、その方は私から逃げるように遠ざかっていった。心因性扱いから感染者扱いに変わった瞬間であった。
私を「入院させるかどうか」が看護師さんたちの間で話し合いが行われていたちょうどその時、隣に40度の高熱の患者が運ばれてきて、初期の私と同じ様に痰が喉に絡んで息がうまく吸えていないような状態だった。
「病院の方が(感染リスクが)危険かもしれない。1人(暮らし)じゃないから、自宅で療養して、何かあったらまたすぐに来てね」
と寄り添ってくれた看護師さんが言ってくださり、入院せず引き続き自宅療養となった。
《医療機関D》
医療機関Cで対応してもらってから数日後の4月上旬、過去に受診したことのある心療内科に家族が私の1ヶ月弱の症状経過のメモ書きを持って代わりに受診してくれた。まだうまく声が出せず、電話診断もできないためである。
「経過を見る限り精神的から来るものではなく、外傷だね。内科でPCR検査はできないの?」
と医師から言われたとのことだった。その言葉に私がどれだけ救われたことか。やっと、医師が私の感染を疑ってくれた。
このことで、内科では心因性と言われたが、心療内科では心因性を否定されてしまったことになる。
割と初期にこの一言があったからこそ、私が精神的に落ち込まずに自分と向き合い続けることができたのかもしれない。この一言は長い闘病生活を支えてくれた大きな言葉であった。
《2020年4月〜8月前半》
この後はほぼ寝たきりの状態が8月まで続く。体を起こすことが厳しく、椅子に座っていることもできなかった。
熱は乱高下したり、嗅覚は完全に無、味覚は甘みだけが異様に強く、肝臓が硬く激痛で横向きになれなかったり、顔や片手が土色になったり、腕や足に黄疸や内出血が多数、足の指には霜焼けのような症状(海外の情報では毛細血管の壊死によるものと言われていた)、膵臓あたりがポコッと腫れ強く痛んだり、脾臓あたりが痛み、腸はコポコポキュルキュルと鳴り腹痛や下痢、血管は浮き出てピリピリチクチクと痛み、舌は白く分厚くカンジダ症を疑い、腕や足は重怠く見た目も白く驚くほど細くなり、右腕は感覚がなくなり、手の指は突っ張り曲げられなくなり、痺れや足裏の激痛でトイレに行くにも床を這うように移動していた。
食事はお粥と野菜スープをちまちまと食べるのがやっとで、食欲が出てきた日に頑張って食べたとしても全く体重が増えない。体重は5ヶ月間39kg台が続く。肋骨やあばら、お尻の骨まで浮き出て、お風呂場の鏡に映る自分の姿はまるで生きる骸骨のような体だった。
5分未満の入浴ができるようになったのが7月中旬で(浴室は息が苦しくなるため洗髪のみを週に2日などとして洗う箇所を分割していた)、日によるが30分程度ならば体を起こせて過ごせるようになったのが8月に入ってからだった。それ以外はずっと横になって過ごし、ほぼ寝たきりの状態が5ヶ月間続いた。
《2020年8月 医療機関B》
腕と足の突っ張りと痺れ、痛み、血流の悪さから四肢に血栓ができているのではと疑い、久しぶりに医療機関へ。
向かった医療機関Bは、3月に私を「風邪と心因性」と診断したところである。
このときの体重はまだ39kg台、足は引きずって一歩一歩がやっとの状態。
「この症状はいつから?最近?」
と聞かれ、3月に受診した時からずっと様々な症状が続いていると話したら、医師は黙りこくってしまった。
あれから5ヶ月経ってここまで体が悪化したことに医師は一切言及しなかった。
私がお願いした検査を断る素振りもなく作り笑顔で「これとこれね」と受け入れてくれた。3月の時との対応の違いに気持ち悪さすら感じたが、お願いしたCAVI検査(動脈硬化や血管のつまりの検査)を受けさせて貰えたことは感謝している。
ただ、お互いにコロナのコの字も発しなかった。疑いつつも発してはいけない言葉のようなものに感じた。
《2020年8月末 抗体検査》
8月末に他の医療機関で抗体検査を受けたが「陰性」という結果だった。
「これ(抗体検査の精度)は100%だから。あなたはコロナじゃなかったね」
と医師から悪気なく言われたので、笑って「今後も気をつけます」とその場をやり過ごした。この時は自分のこれまでの症状は詳しく話さず、うまく歩けなかったが元気なふりをして検査に臨んだ。患者が医師に気を使う時点でおかしな話であるが、既に医師に期待することをやめていた。
当時Twitterでは抗体が3ヶ月で消えたという情報が出回っており、発症から6ヶ月近く経過している時点でダメ元ではあった。また、私が受けた抗体検査はB細胞のN抗原しか調べておらず、検査時期も遅れた上にそれで100%の精度と言われても納得はできなかった。
しかも、11月にドイツ発祥の振動医学という手法で身体を測定したところ、私からcovid19に対する抗体酵素に反応があり「コロナ感染歴あり」との測定結果が出た。(コロナ感染の有無の測定は症状による判断でしてくださった。)
自分の体に新型コロナ感染の可能性を示せるまで、8ヶ月かかった。この結果に少なからず衝撃は受けたが、これでは日本では陽性証明にはならないためどうにもならなない。ただ、体の情報は感染者だと言っている、それだけである。
PCR検査は当初から検査のタイミングの問題やウィルス判定に適さないなどと指摘されていたように、次第に抗体検査、そもそも抗体という認識への疑問だけでなく、新型コロナウィルスそのものに対しても様々な考察をするようになった。
体感としては21日目までがサイトカインストームの連続による激しい症状の連続で、その後は免疫低下による真菌症やヘルペス、電磁波など様々な過敏症、体内の酸化や炎症による血液などの症状、ミトコンドリア機能異常による慢性疲労などと素人ながら考えている。
《2020年9月〜2021年12月現在》
2020年9月上旬に3回ほど数百メートルの散歩に行けたが、足の激痛が始まりまた歩けなくなる。整体院では太ももなどに芯のようなものがあると指摘されていた。
食と向き合い続け、9月にようやく体重が40kg台に乗るようになり、そこから徐々に増え始める。ときどき息苦しさや動悸、肝臓の痛みなどは起こるが、内臓系の症状はだいぶ和らいでくる。しかしブレインフォグやめまい、疲労感は強く、家事などで30分動くと1〜3時間は横になって休む必要があった。
11月に足の違和感は強いものの少し歩けるようになったが、12月末に普段10分の散歩のところ20分歩いたことでひどいクラッシュ(慢性疲労症候群)を起こし、体全体が鉛のように重くなり足が一歩も上げられなくなる。
そこから3ヶ月間ほぼ動けず寝たきりとなる。
慢性疲労と向き合い、栄養の見直しとクエン酸回路を回すことなどの対策で徐々に疲労感が抜け、2021年5月、やっと250mの散歩に行ける。
2021年12月現在は体力的に自力での外出は難しいが、家にいる分には体の不調はほぼなく、家事もこなし週に2回ほど1kmの散歩が出来るまで回復している。
以上が、私の症状経過と、私が経験した医療とのやりとりの事実である。
医療を直接受診したのは3月に2回、8月に1回だけということになる。
診察拒否、心因性という逃げ道の診断、感染者扱いしつつ検査はしない。37.5度あって車椅子に座れない状態まで弱っても検査はしない。
私にとって保健所の対応も医療の対応も、自分にはプラスにならずストレスを受けるというマイナスであったため、早々に医療に頼らず、自宅療養と整体で自分の治癒力を高めることに専念しようと切り替えた。ただ、そもそも8月までは上半身を起こすのがやっとの状態で、通院が不可能でもあった。
未知な感染症であり、医療側も自身の病院で感染者が1人出ただけで閉院に追い込まれる不安など、患者に寄り添えない事情も多くあったとは思う。
しかし、当時の国や医療の対応によって心が傷つき、より追い込まれて症状が悪化してしまった患者さんも多くいることは広く認知されるべきであると思うし、医療のあり方そのものと向き合う必要があると感じている。
分からないことを分からないと素直に言える医師が、2020年当時、日本にはほとんどいなかったのではないだろうか。
気づき1「食と医療」
2020年3月から自宅療養を続け、まず気づいたことは酸性食品を食べると体調が悪化し、アルカリ性食品を食べると体調が悪化しないことである。
悪化する酸性食品の中でもパンやうどんなどの小麦製品は急激に体調が悪くなり、食事中に倒れ込むほどであった。
4月に再び腸が悪化し、体からのエネルギーが全くなくなりベッドの上で天井を眺めること以外できなくなった。
その時にTwitterの仲間たちのおかげで、小腸に負担のかけない「低FODMAP」という食事療法を知る。
それは小麦製品だけでなく、白砂糖、玉ねぎやにんにく、豆類、きのこ類、添加物などがNGとされる厳しい食事制限であるが、体重が39kgを切りそうになり、藁にもすがる思いで徹底して試すことにした。実際に玉ねぎを一口食べただけですぐ水下痢になる体になっていた。
低FODMAP食を試してみると、まず食事中に体調が悪化することがなくなった。下痢も数日でおさまった。この食事療法との出会いが、私が食と本気で向き合うきっかけとなった。
添加物などがNGとされる理由を探っていくと、日本の食の異常さに気づく。
市販品には必ずと言って良いほど添加物が入っている。お煎餅にはアミノ酸という添加物、清涼飲料水や体に良いとされるヨーグルトにも、果糖ぶどう糖液糖などが添加されている。
原材料を見ると、自然の素材より添加物の方が種類の多い商品もある。
発症前から食にはそれなりに気をつけて毎日自炊していたが、改めて食材を見直すとスーパーで買えるものは添加物だらけのおかしな食品ばかりであった。
ほぼ同時期にTwitterの仲間の一人から、マグネシウムの大切さを教えて頂く。それがきっかけでビタミンだけでなく、マグネシウムなどのミネラルにも着目することになる。
食材の栄養を調べ、野菜の栄養価は昔より随分と下がっていると知る。
野菜などの栄養低下の原因は、農薬や化学肥料などの使用によって土壌が汚染され、土壌の微生物たちが減ったことだと知る。
また、私は肝臓が激痛であったため、漢方薬すら飲むことができず、薬も飲んでいない。
サプリは最低量のビタミン剤と、真菌症対策のハーブのサプリを一時的という、なるべく食で治すことを心がけてきた。(食以外では整体に通い、マグネシウムは経皮吸収し、電磁波などの対策、足首の体操や日光浴、脱力や呼吸法などは日々実践していた。)
血をキレイにする、肝臓に優しい食材を選び、独学であるが栄養学に重きをおいて実践してきた。
小麦製品や添加物などを避ける低FODMAP食に加え、抗酸化作用のある野菜スープ、生姜、ブロッコリースプラウト、緑茶、ハーブ、スパイス、ブルーベリー、リンゴ酢、梅干し、梅肉エキス、真菌症のダイオフ対策の竹炭、元気な野菜、マグネシウム含有の多い天然塩や還元塩、良い水、良い油、昔ながらの製法の調味料などを取り入れた。
(体調によっては避けるべき食材もあるので、安易に取り入れずにご自身で調べ、体調と向き合いながら少量ずつ試してほしい。)
一時期、肝臓のために分食を試したが体に合わず、その後16時間断食を試したところ体重が増え始めるなど、日々体と向き合い微調整を繰り返し、食に関してはストイックに続けた。
だんだんそれらの食が心地よくなり、良い素材や本物の調味料を使うと調理も簡単で味付けもシンプルで美味しく、自然と体が喜ぶ食を摂ることができるようになっていった。
ある日、食事療法の本を読んでいると、
「症状は病気ではなく排毒現象である」
「食の内容で血が汚れ、血の汚れの原因が不調の元になる」
「排泄(排毒)がうまくいっていれば元気でいられる」
と書かれていた。
つまり、症状には全て理由がある。
発熱は体の体温を上げ免疫力を高め戦うための症状、湿疹は皮膚からの排毒、下痢は悪いものをすぐ外へ出そうとする排毒現象である。
薬はその排毒症状を止めてしまう一時的な対処に過ぎない。
小麦製品などを食べるとすぐに下痢になる体になったのは、体がそれらを受け付けたくないというサインであったと気づいた。小麦は腸を荒らし、白砂糖は炎症を起こしたり体を冷やしたりしてしまう。添加物は多種あるがそれぞれ様々な疾患の懸念がある。
現代人が好んで食べる肉や小麦製品、加工食品などの酸性食品は、血をドロドロにしてしまう。
血を汚し不調の元となる酸性食品を控え、4月からアルカリ性食品や抗酸化作用のある野菜などを中心とした食に切り替えたことで、血をキレイにし、炎症を起こしにくくし、様々な症状が和らぎ回復していったのだろう。
食が全てなのではと、身を持って感じていた。
8月に行った病院での検査結果は、コレステロール値が少し高いのと、寝たきりだったせいか血管の詰まりが境界領域であったため、医師から食事のことを指摘された。だが、揚げ物を控えて程度のあっさりと言われただけだった。この時すでに指導以上のことを実践していた。
このことで、日本の医師の多くは栄養学を深く学んでいない、医師の多くは食の大切さを患者に指導できないと感じてしまった。
食が血を、体を作るという本気の食事指導は、多くの医師からは得られない。
改めて病院とはあくまでも検査をして異常値を見つけ出し、それに対処するための薬を出すところであって、病気を治すところではないと感じた。西洋医学は原因療法ではなく対処療法である。
3月から感じていた医療にかかる必要性のなさを再度味わったため、この8月の再診を最後に、医療には1度も通っていない。
一言だけ加えると、私は西洋医学を全て否定している訳ではない。緊急時の対応など、対処療法として一時的なものは必要だと思っている。
ただ、コロナの症状が始まる数ヶ月前に、人生初のインフルエンザを発症し40度近い熱が出た。その時に服用した強い薬が腸内環境を荒らし、今回、私の腸などの回復が遅れた原因のひとつではないかと考えている。
日本の医療では簡単に抗生剤などを処方する傾向にある。しかし強い薬によって腸内環境のバランスが崩れ、免疫低下に繋がり、体調の悪化や体調不良が長く続く場合もある。今回のコロナ騒動で、現役の医師の方の中にも今までの考えを改めたという声を、いくつか拝見している。
これらのことから、
体を治すのは自分自身であり、自分の自然治癒力が最大の薬であると気づいた。つまり、自然治癒力を発揮させるための食生活が大切である。
そのためには通院して薬を飲むことではなく、サプリをたくさん飲むことでもない。
血をキレイにする食生活をし、次項に記載するが体を酸化させる様々な社会毒を取り除くことが大切であると感じた。
社会毒の中にはストレスも含まれている。
自分にとってストレスと感じた通院を回避して、自分の体と日々向き合えたことも、体の回復に繋がったと感じている。
現在は低FODMAP食でNGとされている野菜や豆類などの食材系は解除したものの、小麦製品や白砂糖、添加物などを避ける生活は続けている。身体がそれらの食べ物を食べたいと思わなくなった。
今は内臓の痛みもなく、血管の浮きも治り、手足の痺れもなく、体重も元に戻った。食が薬そのものであり、体の自然治癒力が最大の医療であると、自分の体が実感している。
気づき2「社会毒と地球環境」
今は野菜はなるべく無農薬や低農薬のものを選ぶようにしている。
自然食品店で買う以外は、両親が時々送ってくれる家庭菜園の野菜と、細々であるがベランダ菜園で野菜の収穫を楽しんでいる。
日本では農薬規制も海外とは比べ物にならないほどゆるく、オーガニックの野菜を扱うスーパーはほんの一握りなのが現状である。
農薬や化学肥料を使うことで土壌が汚染され、土壌に多種存在するはずの微生物たちが住みづらくなり根と菌という土中の環境が崩れ、野菜自体のビタミンやミネラルが低下していることを、日本人はどれだけの人が知っているだろうか。
たとえ自炊していてもスーパーの特売の野菜で作った料理は、栄養の低下した素材のためビタミンミネラル不足である。飽食の時代である現代人が栄養不足だと言っても、多くの人が信じないかもしれない。
様々な種類の農薬を何回も使われた野菜を育て消費するというサイクルが、栄養不足という人間の不健康を生み、土壌を汚し地球を汚し続けているということも。
まずは低農薬や減農薬からでもよいので生活に取り入れてほしい。
人間の多くがこのことに気づけば、ゆくゆくは無農薬・無化学肥料という農作物が主流になっていくのではないだろうか。
無農薬農家さんは虫対策や消費者や販売業者さんから受け入れられないなど多くの苦労があると聞くが、私たちも真摯に頑張る農家さんを応援する必要がある。
ビタミンやミネラル豊富な野菜作りには土壌の浄化が必要とされるため、そういった野菜を食べることで人間も元気になり、結果として地球の浄化にも繋がる。
このサイクルを、これからは主流にしていく必要がある。
社会毒とは、農薬や化学肥料、添加物などの食の問題だけではない。
合成洗剤、化学繊維、電磁波、放射能、環境ホルモン、重金属、水道水の塩素、テフロン加工のフライパン…私達の生活は便利であると引き換えに社会毒で溢れている。
食以外のことにも着目したきっかけは、それまで普通に使えていたものが、発症した3月から「電磁波」による急激な具合悪化の酷さと、「匂い」にも敏感になり、電磁波過敏症と化学物質過敏症のようにもなってしまったためである。
掃除機を持つと手がビリビリして痺れがしばらく取れなくなったり、PC作業を2時間すると急激に悪化し2週間寝込むことを繰り返したため、掃除機やパソコンを触ることを諦めた。
キッチンはIH調理器で、ひどい時は5分立つとその場で床に倒れ込んでいた。
IHでの料理はかなり厳しく、ガスの卓上コンロを使ったり、電磁波対策グッズを買ったりして対処した。
実際にIH調理器や電子レンジで調理したシンプルな料理は、野菜の味を感じず美味しくなかった。電磁波により野菜の栄養価が壊れてしまったのだろう。
強い電磁波は、周囲の植物を枯らす報告なども出てきている。酸化させているのだと解釈している。
香害は、発症前から柔軟剤は無香料ノンシリコンのものを使っていたもののそれでも匂い、洗剤に含まれる香りなどでも具合が悪くなるようになる。
洗剤に関しては合成洗剤を全てやめ、ナチュラルクリーニングを導入した。
重曹やクエン酸、セスキ炭酸ソーダ、にがりなどで洗濯からシャンプーまで事が足りてしまう。食器洗いは今まで手湿疹など手荒れがひどく手袋がかかせなかったが、無添加固形石鹸に変えたところ手荒れも治り素手で洗っても手がキレイなままになった。
ナチュラルクリーニングは地球に優しい上、体調が悪化することもなく、お財布にも優しい。
衣類は元々綿素材が好きではあったが、新たにオーガニックの布ナプキンを導入することにした。
食やマグネシウムなどの相乗効果もあり、それまでひどかったPMSや全身冷や汗をかくほどの生理痛は、嘘のように軽くなった。
つまり、いかに今まで皮膚から体に有害なものを経皮吸収していたか、ということである。
合成洗剤は経皮吸収することで人間の体内に化学物質を取り込むだけでなく、使えば使うほど海を汚す。つまり、地球を汚す。
綿の栽培に使われる農薬の量も凄まじいと知る。チープな使い捨て衣類ではなく、本物の天然素材のものをひとつ買って、長く使う方が体にも良く環境のためにもなる。
体を治すために食について自身の体で試しながら学び、食を知ることで洗剤や日常にたくさん潜んでいる社会毒にたどり着き、結果として人間は生活するだけで病気になるだけでなく、生活するだけで地球を汚し続けていることに気づくことができた。
コロナは、人間たちによって汚され続けた地球が発した「SOS」ではないだろうか。
現に私だけでなく、同じ様にTwitterで出会った仲間たちも食や洗剤、衣類などに気を使う人が増えてきている。
コロナの目的とは、体調を崩すことで真の健康について人々を向き合わせ、体を健康にするためには汚してしまった地球の浄化が必要だと、私たちに気づかせることではないだろうか。
社会毒まみれの現代で、人間は生活するだけで体調不良になるという被害者でありながら、社会毒を使って生活するだけで地球を汚すという加害者でもある。
汚してしまった地球を浄化していくことが、自分自身の治癒にも繋がっていくと感じている。
自分の体のために始めたナチュラルな生活は、今では快適な生活となり、自分だけでなく地球のためにも続けている。
循環できずに汚し続けてしまった地球に対して、これからは地球の浄化活動を行う人が増えていくと確信している。
気づき3「感謝」
発症初期は国や医療に対する怒りや憤りのストレスが非常に大きく、未知のウィルスという恐怖心も大きかった。家族にさえ理解されないもどかしさや、次から次へと体が壊れていく恐怖は凄まじいものであった。
痛みと苦しみに耐えベッドとトイレしか行き来できない毎日のある日、トイレに置いておいた水挿しのアイビーが成長を続け小さな若い葉ができているのが目に入ってきた。
水を変えることも忘れられ、太陽の光も届かない過酷な場所で、この子は成長し生きようとしている。
その姿に感動し、勇気とパワーを頂いた。その子を見る度に癒やされ、その時間は自分を取り戻せていた。植物の力はすごい。
また、椅子に座ることも厳しかったが、日光浴だけは5分でも10分でもしようと決めた。太陽の光を浴びる時間は心地よく、痺れなども和らぐように感じた。
人は、様々なものに癒やされ、様々なものから生きるパワーを頂いている。
植物にも感謝、太陽にも感謝。
苦しい日々の中、幸いにも、割と初期の頃から私の話を聞いて励まし続けてくれた親族がおり、彼女たちには何度も心が救われてきた。
離れて暮らす親はこまめに物資を送ってくれたり、他にも癌と闘病しながら私を明るく励ましてくれた友人がおり、離れていながらも多くの人たちから生きる力を頂けることを、ひしひしと感じてきた。
2020年5月頃にTwitterで「痛みは治癒反応」という言葉と出会う。内臓などがあちこち激痛で食事も摂れない程であったが、痛みが出てもなるべく悲観することなく、内臓が頑張ってくれているのだと思い体を応援し感謝を伝えるようにした。
症状のある内臓に意識を向けると強く痛みを感じるが、しばらくすると少し和らぐことを感じてきた。
痛みの場所は数日程で移り、また別の箇所が痛み出すことを繰り返していった。まるで治癒の箇所を移動していくかのようだった。(ただし痛みが全く移らない時は緊急となる可能性があるので、医療を頼ることも必要である。)
6月におそらく免疫低下による真菌症となり、ひどいダイオフ症状の経験から全く身動きが取れなくなってしまう。
ここで自力での回復は無理だと判断し、家族にお願いして自然治癒力を高める整体に通い始める。
この整体による回復は大きく、自身の力でじわじわと確実に体を治していくのを感じた。
これらのことで、人に対する感謝だけでなく、「自分の体に対する感謝」という想いが、徐々に徐々に湧いてくる。
それまでの私は「お体を大切にしてね」と人を気遣うものの、自身の体を大切にする方法が分かっていなかった。
発症前は好きな仕事をしていたにも関わらず未来に希望を感じられず、生きることに頓着がなく、いつ死んでも良いとぼんやり思って生きてきた。
2020年3月、あまりにも激しい苦痛の連日で何度も心はもうダメだと諦めかけ、発症21日目など死を覚悟した日もあったが、それでも体は諦めずにせっせと修復し続けてくれた。
「自分の体は自分の最大の味方である」
と、気づくことができた。
しかも、最適な順番で体を修復してくれていることにも。
自分の体に対して心から「ありがとう」と伝えると、涙がポロポロと流れてきた。
低FODMAPなど腸活を続け、腸には微生物がたくさん住んでいることもひしひしと感じる。
苦しめられた真菌も決して悪ではなく、常在菌であり自分の体の住人である。症状は、バランスが崩れたサインである。
腸だけでなく、体にはたくさんの細胞があり、それぞれ役割があり体を形成しているだけで既に完璧な状態である。
そういった体の神秘を感じることが増えていき、自分の体の住人たちに対しても感謝の想いが湧いてくる。
2020年8月には、
「自分を大切にするとは、自分の体に感謝を伝えることである」
というツイートをしている。
体の症状や対策のツイートから、少しずつ精神面や気づきのツイートへと私のアカウントの発信内容は変化していった。
外出も散歩も出来ない体であったため、幸いにも自分と向き合う時間はたっぷりとあった。
例えば、ある日の気づき。
「言葉って、音の波だ。つまり、波動であり、周波数だ」
こういった当たり前で本当に小さな小さな気づきを、日々積み重ねていった。
ひとつの小さな気づきで体が喜び、気づくたびに体のパワーを取り戻していくようだった。
自身と向き合うことで、症状は恐怖やトラウマなど意識による部分も大きいとも学ぶ。連日のメディアの恐怖を煽るような報道に影響を受け、体が緊張してしまっている方は多いのではないだろうか。
私自身、発症する3月まではテレビを信じコロナを恐れていた。発症後はそもそもブレインフォグなどで映像を見ることが厳しかったが、テレビは嘘の塊にしか感じられず、体が拒否して見ることができなくなった。
自然とメディアから離れる生活を続けたことで、国やテレビが発信する「外」の情報に振り回されず、ストレスフリーで自分自身という「内」に集中し続けることができた。
先に書いた社会毒に関しても、神経質になるのはかえってストレスとなり、体に毒である。
まずは社会毒を知り、対策を学び、自分に合う対処法をして、あとはあまり気にしないことが体にとっては一番だと思っている。
意識やトラウマなどによる体への影響は、想像以上に大きい。
今となっては、「コロナ陽性者」とラベリングされなかったことも良かったと思っている。
自分は陽性者と思い込む意識が、きっと症状を加速させていただろう。とは言え、自分の中では初期から感染者だと確信を持ててしまっていたので、あまり変わらなかったかもしれないが。
2020年の年末に起こしたクラッシュ(慢性疲労症候群)で立つことも出来ない程の寝たきりとなり、再度自分とじっくりと向き合う機会を得られた。
そこで表面的にはもう大丈夫だと思っていたものの、潜在的、心の奥底で「自分はコロナの被害者である」という被害者意識がまだほんの少し残っていたことに気づく。同時に、Twitterで苦しむ仲間たちに寄り添いたい気持ちも強かったため、彼らの集合意識にも自分が引っ張られてしまっていたかもしれないと思った。
自身の被害者意識と、被害者という集合意識、そしてコロナに対する意識への気づきから、コロナとじっくりじっくり向き合ってみた。
コロナ自体は悪者ではない、人間に利用されてメディアに好き放題言われて、コロナ自身も被害者なんだ。
コロナに対してまずは今までの自分の認識と世の中の扱いを謝罪し、色々と気づかせてもらえたという感謝の想いをゆっくりゆっくりと伝えたら、涙がポロポロポロポロと止まらなくなった。
次の瞬間、それまであった体の緊張がすっと解けたような感覚を得られ、頭に残っていた症状も和らいだ。
コロナに対して心からの感謝を伝えることができたのは、発症から約10ヶ月経った2021年元旦のことだった。
2021年に入ってからは、精神面は格段に安定し、毎日が感謝と愛で溢れるようになった。
年明けの体はクラッシュ中で体は動かず寝たきりであるものの辛い症状はなく、発症前より健康になる確信を持つことができ、未来に対して明るい希望で溢れるようになっていた。
大切なことを気づかせてもらえたというコロナに対する心からの感謝の想いが、自分の回復を何段も加速させたのであった。
感染した理由とは
私が新型コロナに感染した理由は、周囲の理不尽な対応と死を覚悟する程の症状を経験することで、長年体に張り付いていた思い込みや概念などをポロポロと落としていき、本当に大切なものを思い出し、本来の自分に気づくためであったと分かった。
この大きな気づきを得るために、私にはこれらの壮絶な経験が必要だったのだ。
人生とは旅のような冒険のようなもので、生まれた時に記憶がリセットされると思っている。
ゲームに例えるとひとつひとつの経験がクエストやダンジョンのようなもので、ひとつ乗り越えると「気づき」という宝箱を得られる。
おそらく、コロナの少し前にかかったインフルエンザが始まりではない。
インフルを貰ってきた会場に行く予定ができたこと、引っ越し先の家がオール電化しか選択肢がなかったこと、それまでの生き方や体内の有害物質の蓄積など、2020年3月上旬の発症に向けて、私の人生は着々と準備が進められていたのだ。
今回の経験は、人生最大転機の予定されていたダンジョンであった。
ダンジョン中の生きるか死ぬかの選択の時、自分で「生きる」を選んだ。そして、「自分に対する愛と感謝」という大きな宝箱を得ることができ、やっと今、私はスタートラインに立てた気がしている。
気づきには天井はない。
日々、小さな小さな気づきを積み重ねていく。
以前の私は自己犠牲から行動し、自分を蔑ろにして他人のために生きてきた。いつ死んでも良いと思って生きていた。
コロナを経験した今の私は、この体がとても大切な相棒であり、この体とともに長く生きていきたいと思っている。
体力が不十分で働くにはまだ遠いが、心は軽く、気持ちは明るく、毎日が希望に溢れている。
この境地にたどり着くまで、家族のサポート、親族の方たちの励まし、整体院の皆様のサポート、今は亡き癌と闘病しながら励まし合えた友人、何度も励ましの連絡をくれた友人、Twitterで出会えた仲間たちのサポートなど、多くの方の力が私の命を繋げ、成長させてくれた。
特に整体院まで片道1時間半以上の道のりを車で送迎してくれる家族には、感謝の想いでいっぱいである。
そして、ボロボロになりながらも私が気づくのを待つかのように頑張り続けてくれた自身の体に、心より感謝している。
日々の小さな気づきを重ね、体のエネルギーを取り戻していくと、だんだん「外」の情報などに体が影響を受けなくなっていくのも感じている。自分という「内」と向き合う方が、どれだけ神秘的で無限のストーリーがあるか。
人は、離れていても繋がっている。意識の世界で繋がっている。
ひとりでも多くの人が本来の自分を取り戻し、社会のせいや周りのせいとする「外」に要因を探す被害者意識からの脱却、社会の様々な罠から脱却できるかどうかが、今、問われていると感じる。
社会には大きな問題があるのは事実だと思うが、社会を作るのは政治家ではなく自分である。発症前の自分もそうであったが、多くの方が受動的に飼い馴らされた結果が今の世の中である。
一人ひとりの意識が変われば社会も変わる。多くの方が自分自身に対する心からの愛と感謝を取り戻せば、他人と自分の境もなくなるため、この地球は間違いなく素晴らしい世界になる。人々の意識は、それだけ世の中に大きな影響がある。
Twitterでも、コロナ禍を経験したことで、私と同様に大切なことに気づかれた方が増えてきている。その一方、Twitterの仲間にはご家族を亡くされた方も何名かおり、未だにあまり回復せず苦しむ方もいる。
苦しみの大きさは人それぞれであるが、苦しむ人も、気づきへと向かう道中にある。現在がどんな状況であったとしても、皆それぞれ、今回の経験には理由があると感じる。
どうか1人でも多くの方が、自分自身の大切さを思い出せるよう、願っている。