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どっちがうっかり?~『うっかりおじさん』

『うっかりおじさん』
 エマ・ヴィルケ
 きただい えりこ
朔北社/2019年

読んだら思わず「うふふ」と声が漏れる。
こういうとぼけた笑いは大好きだ。

何しろタイトルが『うっかりおじさん』なのだから
「うふふ」が含まれているであろうことは
背表紙を見たときから予想していた。

しかしこの「うふふ」へ至るまでの道は
作者から読み手への直接的な手渡しではない。

翻訳者である“きただいえりこ”氏の暗躍(?)によって
人物の見え方にちょいと小細工がされているのだ。

その「見え方」の細工の仕組みを楽しみながら
読んでもらいたい。

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「きみ、ちょうどいいところにきてくれた!」
ひとりのおじさんがこちら(つまり本を読んでいるわたしたち)に
向かって話しかけてくるところから始まる。

話しかけられている「読み手」の視界を通じて
おじさんのおでかけ準備を手伝う様子が語られる。

さて、このおじさんがタイトルにある
「うっかりおじさん」その人なのだろうか?

物語の序盤を見る限りおじさんは
ちっとも「うっかり」していない。
むしろその身支度をサポートする「読み手」のほうが
圧倒的に「うっかり」している。

おじさんのメガネを自分がかけてみたり
帽子を勝手にかぶってみたりする。
そんな「読み手」においおい、こらこら、と
ツッコミを入れるおじさん。

むむ?
このおじさんは本当に「うっかりおじさん」なのか?

絵本の読者は次第にけむに巻かれていく。

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作者エマ・ヴィルケはスウェーデン、ストックホルム在住の
絵本作家で、よくスマホや財布、鍵などを忘れるらしい。
メガネをうっかり実家の別荘に忘れてきてしまい
車で100キロかけて取りにもどったことがあると
カバーのそでに茶目っけのある情報が添えられている。

原作のタイトルはスウェーデン語なので
私には読めないが、英訳タイトルを見ると
『Help Mr.H getting dressed』とある。

直訳すれば『Hおじさんの身支度を手伝おう』といったところだろうか。

どうやらあの主人公のおじさんのお名前はミスターHというらしい。

そうか、翻訳前ではタイトルから読み取れるのは
おじさんの身支度を手伝うということだけで
「うっかり」要素については触れられていないのか。

ではこの「うっかり」を読む前に読者に晒してしまった
きただいえりこ氏の邦題はネタバレなのだろうか?

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「うっかり」を繰り返す「読み手」の行動を
いちいちたしなめながらおじさんの身支度は完了する。

  よし、したくができた。
   ほら、このとおり!

誇らしげなおじさんの姿を見送る「読み手」。
窓の外は雨模様。

しばらくしてから「おっと。やっぱりわすれてた。」と
おじさんが忘れ物を取りに来るが…というところまで
ご紹介することにして「うふふ」要素は
読んでのお楽しみ。

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さて問題は邦題のつけ方だ。

『おじさんの身支度を手伝おう』ではフセられていた
「うっかり」要素をきただい氏はなぜ持ち出したのか?

あくまでも推測だが、きただい氏はこの作品のとぼけた魅力
つまり「うふふ」な要素をもっと表に出したかったのではないかと思う。

おかげで私のような読者は背表紙を見たとたんに
吸い寄せられるように手を伸ばしてしまう。
見知らぬおじさんの身支度を手伝う絵本では
そう食指は動かない。

そしてこの邦題のつけ方によって
もうひとつの効果が生まれている。

それが「うっかりおじさん」に対する“ミスリード感”だ。
最初のページでおじさんを見た瞬間に
「この人がうっかりおじさんだ」と誰もが確信を持つ。

しかし話が進むにつれ
どうも「読み手」の方がうっかりしているようだと
わかり、確信が揺らぎだす。

もしかしてこっちが「うっかりおじさん」なのか?

読者はページをめくりながら推測の矛先を
どこへ向けて伸ばしていいか翻弄される。

こうして大胆な邦題の改変によって
もともとお茶目な「うっかりおじさん」の面白さに
翻弄される愉しさが添えられているのだ。

「うっかり」という要素を表に出すことで
新たな愉しみを仕込む。
著者と訳者と読者の三者のあいだにめぐる
イメージのやりとりは
ひとひねりもふたひねりもされていて
うっかりしていると見逃してしまうかもしれない。

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