感性
ホステルに泊っていると様々な人との交流がある。特に日本人というのは、旅先でも日本人とつるもうとする。初めて会ったにも関わらず、交わす会話の一言目が"Where are you from?"だったりもする。日本人であろうという推測に基づいて、出来るだけ苦手な英語で会話をするのを避けるためにその質問が飛び出してくるのだろうが、初対面の人にいきなり出身国を聞くのはどうかと個人的には思う。日本人でなかったとしたら質問された相手は挨拶も抜きに、いきなり出身国というプライベートに土足で踏み込まれることになり、不快な気持ちになる。それならば、日本人ですかと一言日本語で聞く方がいい。
私がホステルの部屋の前でいきなり"Where are you from?"と聞かれてたじろいだのにはそういった理由がある。そして彼は私が日本人だと分かるとそのまま話し続けたのだ。夜そろそろシャワーを浴びようかと思って部屋に帰る私を呼び止めて、寝ている人がいるかもしれない部屋の前で大声で会話をしてくるのだ。一言目だけでなく、そこからも彼の思慮の浅さが垣間見える。
無視するのも失礼かと思い、私は外で煙草を吸うついでに少し相手してやろうと相手を外へと誘った。同時に一服する間に体が冷えて相手も観念するだろうと云う打算もあった。
しかし、彼はしつこかった。私を質問攻めにするのだが、結局は自分がこの20日間ほどで15か国も巡ったことの自慢がしたかっただけなのだ。また彼は大学生なのだが、世界を見て日本人が不幸に見え、古典や宗教の本を読んで日本人には信仰心や哲学が足りないとほざき、そこに気づいた自分に酔っていた。
たしかにその結論には同意できる部分もあるのだが、そこに至るまでの思考過程の浅さがにじみ出ていた。また、そこに気づいても決して自分が優れているなどと思いあがってはいけない。人の中にも小さな宇宙が広がっていて、そこの苦悩は一様に大小関係で比べられるほど簡単ではないからだ。
宗教を勉強したというが、フランス発祥でキリスト教のエキュメニカルな集団であるテゼも知らないし、サンティアゴの巡礼道のことも知らないのだ。仏教については、私が使っているトートバッグに書いてある般若心経にも気づくことはなかった。
哲学について云えば、私が思想に耽る生活をヨーロッパで送ることでツァラトゥストラが超人に近づくことを目指していると言っても分かっていなかった。日本人哲学者なら知っているのかと西田幾多郎の思想を引用しても分かっていなかった。
ニーチェは漫画で読むバージョンなら知っているが、原書には触れたことがないと彼は言った。
古典についても源氏物語や方丈記を古語で読んだわけでもなく、ただ現代語訳されたものを読んだだけなのだろう。
中国の漢詩などについては言うまでもない。
彼の思想の浅さが私にはひどくあさましく思えた。
そんな彼はこのブラチスラバで一ヶ月も滞在する予定の私を見下しているようだった。彼曰く、旅行先にいって一番刺激的なのは初日であり、それ以降は魅力が低減するそうだ。だからせわしなく旅をしてるのだろう。
私はそれを聞いて何と感性の乏しい人間かと思った。
私は道端に咲く花にでも涙できる。
例えばこの写真に映った風景を見ても彼は何も感じないのであろう。
私は東へと風に流されていく雲を見て、その一つ一つが爆撃機のように思えた。そこからハウルの動く城でのワンシーンを思い起こした。
また、雲をよく見てみると上の部分は光が当たって真っ白になっていた。そこからこの曇り空の上に広がっているであろう青空と太陽を見出し、それがブラチスラバ城に飾ってあった絵画に描かれていた同じ青空なのだろうかと思った。
またこの草原を見て、はるか昔ユーラシア大陸の東から訪れたフン族などの遊牧騎馬民族はここで長旅で疲れた愛馬と共に休憩したのだろうかと思った。
感性が豊かとはそういうことだと思う。
自分の中の記憶や体験の断片同士を繋ぎ合わせて、様々なものに想いを寄せることが出来るかどうかである。
貧相な感性しか持ち合わせていない彼は、観光ブックに箔付けされたものを見て、観光ブックに書いてある通りの情報と照らし合わせて満足する。
自己の中に確固たる評価軸を持たなければ人間は真の意味で幸せになれない。
感性を磨くのはそういった意味でも大事である。