「半自伝的エッセイ(1)」 チェスと鳥の置物
かれこれ三十年ほど前のことである。私はまだ学生で、授業にはろくに出ていなかったから、大いなる暇を持て余していた。そこで、都内某所にあった、今でいうところのチェス喫茶みたいな趣きの店「R」に頻繁に出入りしていた。香り高いコーヒーを堪能しながら仲良くワイワイとチェスを楽しむ、というのが表向きの店の趣旨だったが、カウンターの裏には十畳ほどの広さの別の部屋があり、そこでは賭けチェスが行われていた。そこは表の路地からは見えないことは無論、店内とも隔絶された空間だった。
いつしか別部屋の住人になっていた私にある時、郷田さんが二十五万で受けてくれないかと提案してきた。賭けチェスと言っても通常は一局五千円ほどが相場だったから郷田さんが口にした金額の大きさに驚くと同時に、中途半端な金額であることも気になった。ちなみに、一局五千円と言っても同じぐらいの棋力の二人が指すのだから、仮に十局やっっても半分がドローで、後の五局を3−2で終えれば、大した金額は動かなかった。
郷田さんとは同じぐらいの棋力だったのでよく盤を挟んだ。当時郷田さんは、正確な年齢は知らなかったが、三十過ぎあたりだったはずである。私からすると少し歳の離れたお兄さんという感じだった。お兄さんといってもかなりやり手の若手経営者然とした立居振る舞いが私の目には眩しく、実際に何かの会社を経営していた。時折話の中にロシア、当時はソ連だったが、の名前や都市が出てくるので、ソ連との貿易でもやっているようだった。「R」の別部屋の暗黙の了解として、互いのプライベートは詮索しないことになっていたから、私も郷田さんについてそれ以上のことは知らなかった。
月末近くに二十五万が必要ということは、おそらく郷田さんは金策に追われているのだろうと、社会経験のない私にも薄々わかった。それまで郷田さんからはソ連のチェスの雑誌を大量にもらったりしていた。ロシア語はまるでわからなかったが、局面図や符号を追っていけば、書かれていることはおおよそ見当がついた。当時はまだチェスのネット対局など存在せず、そんな日が来ることも想像できなかった時代である。チェスの知識を得ようと思えば、日本語では入門書レベルの本ぐらいしかなかったので、アメリカやイギリスの本屋に注文のファクスを送り、なんだかんだ面倒な手続きを経てやっと銀行決済を済ませ、それでも実際に本が届くのは数ヶ月後という時代だった(何年待っても届かない本もあった)。ボビー・フィッシャーが世界チャンピオンになってから随分経っていたが、それでもまだチェスといえばソ連だった。だから、ソ連のチェス雑誌はいくら金を出しても欲しいものだった。そんなものをタダでもらっていたし、郷田さん行きつけの銀座のクラブにも連れて行ってもらっていたから、二十五万ぐらいなら貸してもいいと思っていた。私の銀行口座には奨学金が振り込まれたばかりなのでそのぐらいの金ならあった。
とはいえ、歳下のまだ学生の私に無心するというのでは郷田さんとしても気が引けただろうし、私としても貸しますと言うのは傲慢な気持ちもあったので、私は郷田さんの提案を受けた。一発勝負ではなく三局先勝で勝ちということにした。二十五万を貸してもいいと思っていたぐらいだから、この勝負に負けてもいいと私は思っていた。実際に一局は手を抜いた。しかし、十数局指した末に私は三勝してしまった。負けた郷田さんは何本目かのタバコに火を点け、大きく煙を吐いた。吐き出された煙が換気扇のほうに漂い、流れていくのを私は無言で眺めていた。
タバコを吸い終わると郷田さんは傍の椅子に置いてあったカバンの口のファスナーを開けると右手を中に差し入れた。札束を出すのだろうと私は思った。それをどうやって断ろうかと、私は視線を中空に向けて考えていた。これ、と言って郷田さんが手を差し出したのが目の端に入った。視線を下に戻すと、チェス盤の上に差し出された郷田さんの手があった。手のひらの上には札束ではなく、鳥の置物らしきものがちょこんと乗っていた。私は虚をつかれた。
「これは?」私は尋ねてみた。
「申し訳ない。恥ずかしい話だけど、今は金がない。必ず払う。それまでこれを預かっていてくれないか?」そう郷田さんは言った。続けて郷田さんは「絶対に損はさせないから」とも言った。
そのことがあってから郷田さんとは一度も会うことがなかった。それまでも、おそらく出張か買い付けかで二ヶ月ぐらい「R」に顔を出さないこともあったから当初は気にしていなかったが、半年も来ないとなると、ああもう来ないんだなと思った。
去年、ロシアがウクライナに侵攻したというニュースを耳にした時、久しぶりに郷田さんのことが思い出された。同時にあの時預かった鳥の置物のことも思い出した。捨ててはいないはずだが、三回か四回ほど引っ越しをしているし、どこかになくしてしまったかもしれない。だが、預かった経緯を考えると自分から捨ててしまうとも思えなかった。あるとすれば、押し入れの下段に突っ込んであるいくつかの段ボールの中に違いなかった。
それは小さな段ボール箱の底のほうから見つかった。手のひらに乗せると三十年ほど前の郷田さんとの対局が蘇ってきた。すっかり忘れていたはずなのにいくつかの対局は進行の符号まで頭の中ですらすら再現できた。鳥の置物は長い年月が経っているのに色褪せることもなく、相変わらず愛嬌のある表情を私に向けていた。ただ残念なことに広げた尾羽の先が数ミリ欠けていた。預かった当時も目にしていたはずだが、鳥の置物を裏に返すとそこには作った人のものと思しき名前と少々長いキリル文字の連なりと「94г」という文字が記されているのに気がついた。「94г」というのは「94年」のことだとすぐにわかった。
その少ない情報をもとにインターネットでこの鳥の置物をことを調べると案外簡単に判明してしまった。作った人は、ナタリア(もしくはナターリャ)・ネポメンコという女性で、ロシアや世界のコレクターの間ではかなり有名な土人形作家だった。となると、どのくらいの価値があるのか気になるのが人間の性というものである。これもすぐにわかった。今から八年ほど前に、とあるオークションハウスでネポメンコさんの人形が競売にかけられていた。それは私が持っている、厳密に言えば預かっている、鳥の人形と若干大きさが異なるようだが瓜二つの人形だった。
そのオークションハウスの競売記録では、ネポメンコさんの鳥の置物は予想落札価格が1500〜2000ドルだったの対して、実際の落札価格は3200ドルだった。ということは三十年前の二十五万円にだいぶ利子がついた金額になっている計算である。郷田さんの言ったこと「絶対に損はさせないから」は本当だった。
(後日譚「鳥を売る」はこちら)
文中に登場する氏名、店名等は全て仮名です(ただし、ナタリア・ネポメンコさんは実在の土人形作家です)。
ロシアの土人形の簡単な相場を後日譚の末尾に追加しました。誰かのお役に立てれば幸いです。
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