「半自伝的エッセイ(6)」偽装工作
私を除く残りのみんなはテーブル席に移り、野原ちゃんと一緒にさっきのチェスプロブレムを検討していた。「クイーンが取られてないとこの局面にはならないんです」野原ちゃんが力説する声が時折聞こえてきた。
カウンター席に寄りかかってその様子を眺めていた私にマスターが小さな紙を見せた。そこには「明日ひま?」と走り書きしてあった。声に出して訊いて来ないということはそこにいるみんなかあるいは誰かに聞かれたくないことなのだとすぐに悟った。私は小さく頷いた。マスターは紙を回収し、何ごとかを書き足してからまた紙を滑らせるようにカウンターの上に出してきた。「11AM」と書かれていた。私が読んだのを見てマスターは人差し指を下に向けて指した。明日午前十一時にここに来いということだろう。私はまた小さく頷いた。
翌日時間どおりに店に来ると、マスターは「悪いんだけどさ、あそこの公園から砂を拾ってきてもらえるかな?」と言った。私にはマスターの言っていることがよくわからなかった。
「いや、あのね、どうも知ってる人がいるらしいんだ」と言ってマスターは親指を立てて自分の後ろを指した。
「裏の部屋ですか?」
「うん。だからしばらく畳もうと思って」
そういう理由ならば部屋は閉じたほうがいいだろうが、砂とはどんな関係があるのか。私の疑問を察したのか、マスターは、
「偽装工作」と言って、片目をつぶった。「あっ、それと、蜘蛛を何匹がお願い」そう言ってマスターは私にビニール袋を差し出した。
「砂は歩道とかに浮いている白っぽいやつで」
言われたとおり砂をひと掬いほどと女郎蜘蛛を三匹ほど捕獲して私は店に戻ってきた。店内にマスターがいなかったので裏の部屋に行った。すでに机が部屋の端に集められ、その上に椅子が天地逆に乗せられていた。
「ああ、ありがとう」そう言ってマスターは私からビニール袋を受け取った。まず蜘蛛をその辺りに放すと、砂を手に取り、机と椅子の上に薄くふりかけ、同じように今度は床にも薄く撒いていった。
「これでよし」マスターは言った。
店内に戻り、近くの洋食屋から出前を取った。ランチを食べながら、「二、三日もすると蜘蛛の巣だらけになるんだ」とマスターは嬉しそうに言った。
賭けチェスができなくなるのは少々寂しかった。金を賭けなくてもチェスはできるだろうと言われればそれまでなのだが、人は金が関わると途端に目の色が変わるものなのである。振り返っても私はその頃が一番チェスが強かったと思う。
「どうもね、野原ちゃんがちょっと怪しいんだよね」と食後のアイスコーヒーを飲みながらマスターが言った。
「野原ちゃんって、あのちょっと変わったプロブレムを持ってきた?」
「そう。親父さんだかおじさんだかが警察関係者らしくて」
「そこから話が漏れたということですか」
「確証はないんだけどね。どう、藤井君、ちょっと探ってみてみない?」
「探るって?」
「野原ちゃん、藤井君に気があるみたいだから」
「いや、だって昨日初めて見ましたけど」
「そんなことないよ、何度か一緒になってるって」
「そうでしたか?」
「今度、一度場を設けよう。同じぐらいの歳だと思うし」
面倒なことを押し付けられそうで億劫な気持ちもあったが、ジョン・ル・カレのスパイ小説などを好んで読んでいた私には、面白そうだという不謹慎な期待がないわけでもなかった。
(続く)
文中に登場する人物等は全て仮名です。