「半自伝的エッセイ(43)」郊外の過去が住む家の軒下のツバメ
今でも半年に一回ぐらいは実家に帰る。帰ったとしても誰がいるわけでもない。誰もいないから帰るのだとも言えた。庭に繁茂した雑草を抜く、雨戸を開け、窓を開けて家の中に風を入れる。そんな用事を済ますために。
もう随分前のことになるが、母が亡くなって一年ほど放置しておいたら庭が大変なことになっていた。庭いじりが好きだった母がいなくなると、そこは庭というよりも小さなジャングルと化していた。たしか薔薇の花をめでられるように小道みたいなものがあったはずだが、ハーブなどの下草に埋もれてしまい、歩くための地面が見えなかった。少し下草を切ったりむしったりしたものの、まったく埒が開かない。このまま一年再び放置すると隣家に迷惑をかけるまでにさまざまな植物が茂ってしまいそうだった。
とてもこの庭を維持することは自分にはできないので、業者を呼んでほぼ更地にしてもらった。シートを敷き詰めたり除草剤を撒いておけば雑草の繁茂はかなり防止できると聞かされたが、ひとつ懸念があった。母が亡くなってからも軒下に毎年ツバメが来て子育てをするのであった。ツバメを思えば、少々は草が生えて虫などもいたほうが子育ての環境としては理想的なはずであり、来年もまた来てくれるかしらとツバメの来訪を心待ちにして、それを見ることなく亡くなった母のこともあって、こうして少々の雑草の繁茂を許し、伸びすぎた頃に刈りに来ることにしていた。
何年か前のことである。実家に戻り、軒下を見ると、その年もツバメが来ていた。
郊外のどこにでもあるような建売の二階建て一軒家。そこで私は育った。母が亡くなってすぐに売ってしまおうと考えた。地元の不動産屋に見積もりをさせたところ、これが本当に土地の値段だろうかという価格を提示された。一桁違うのではとまで思ったほどである。そんな値段で売って、家具やらなんやらを処分する費用や税金のことなどを考えると、とても売る気にはなれなかった。そんなわけでこうして時折様子を見に来る生活を続けているのだった。毎年の固定資産税はツバメのために払っていると考えて間違いはない。
ツバメの雛はまだ卵から孵っていないらしかった。
玄関を入り、雨戸を開け、あちこちの窓を開けて回った。伸びすぎた雑草を刈り、庭の真ん中あたりに山にしておいた。そこにも虫が集まり、ツバメの餌になるだろう。久しぶりに自分の部屋だった二階の洋間に入ってみた。高校まで過ごした部屋がそのまま残されていた。六畳ほどの広さのスペースに、ベッド、書棚、机、そして学生服がまだ吊るされていた。
書棚の前に立ち、並んでいる本の背を見ると、海外の小説の翻訳本ばかりだった。チェスの本は一冊もなかった。当たり前である。私がチェスを知ったのは大学に入ってからだったから。しかし、この部屋にはたしかにチェスを知らない自分がいた。チェスを知ったからといってそれによって人生が狂ったとかそういうことはおそらくなかったとは思うのだが、チェスを覚えた前と後の自分はそこですっぱりと分けられているような気がした。ひとつ言えるのはチェスを覚えなかったら百合ちゃんとは出会っていなかったであろうということである。
チェスを知らない自分は別の人生を歩んだであろうし、チェスを知った自分は今のような人生を過ごした。それだけのことである。考えても栓のないことだった。縁側に腰を下ろし、駅前のコンビニで買ってきた缶ビールの栓を開けた。一口飲んだ。空が目に入った。青空には適度に雲が散っており、ビールのCMにありそうなシチュエーションだなと思っていると、ツバメが一羽、巣に戻ってきた。このツバメは去年と同じツバメなのだろうか、それともその子供なのだろうか、あるいはまったく別のツバメなのだろうか。
自分のレーティングに興味がなかった私は、日本チェス協会とかのいわゆる公式戦に出ることはなかった。ただ単にチェスのことが知りたかった。今に至るもチェスを理解できたなどとは到底言えない。序盤にひとマス進めておいたポーンが敗着になるなど、一体どれだけ先が読める脳であれば判断できるのだろうか。
ビールを飲んでいると家の奥で電話が鳴る音がした。空耳であることはたしかだった。なぜなら固定電話はとうの昔に解約していたからである。しかし、電話の呼び出し音は鳴り続けていた。私はビールの缶を縁側に置き、電話が置いてある部屋まで歩いて行った。そこにはプッシュボタン式の見慣れた電話機があった。耳の奥ではまだ呼び出し音が鳴っていた。私は受話器を手に取り、耳に当ててみた。無論誰かが向こうで話す声など聞こえるわけはなかった。湿ったような砂嵐みたいなかすかな雑音が聞こえるだけだった。なんとなく過去から届けられた音のように感じられた。
縁側に戻って仰向けになった。もし百合ちゃんが子供を産むことができていたなら、この庭で子供を遊ばせたりしたのだろうか。保育園の先生をしていた母は子供が好きだったからあれこれ理由をつけてはしばしば孫を呼んでいたことだろう、きっと。
ツバメが何かを嘴に咥えて巣に戻った。見ると、巣を修復しているらしかった。それにしても、もう一羽はどこに行ったのだろうか。いつもの年であれば、どちらかが巣にいなければ片方は目の前の電線に止まっていたりするのだが、その年は一羽しか目に入らなかった。
ツバメがまた庭に降りた。地面で巣材を探しているようだった。地面に降りたツバメを見ていると、何かしら太陽の光に輝くものがあった。サンダルを突っ掛けて庭に降りてみた。ツバメがいたところまで行き、腰をかがめてよくよく地面を見ると、それは割れた卵の殻だった。大きさから推測するに、それはツバメの卵であった。蛇かカラスにでも襲われたのかもしれない。ツバメがしきりに鳴きながら私の周囲を飛んでいた。何かを訴えているようでもあった。
巣に戻ったツバメを見上げた。目が合ったような気がした。メガネを新調したおかげで小さな両目までよく見えた。
「百合ちゃん?」
私は自分でもわからずそうツバメに問いかけていた。
ツバメは私の問いかけに答えない代わりに、私をじっと見つめ返していた。
「百合ちゃんだよね?」
ツバメはまた庭に降りた。そこは割れた卵の殻の近くだった。
「わかった。君と君の子供を守れということだよね?」
その年、私はツバメの子供たちが巣立つまで実家で暮らすことにした。