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後部座席への問い
小学生の長女と次女を公文に送っていると、
後部座席であっち向いてホイのような手遊びをしていた。
存在し〜な〜い〜♪
生まれたば〜か〜り〜♪
1歳〜♪
2歳〜♪
3歳〜♪
というリズムに合わせて、あっち向いてホイを続ける。
指と顔の向きが当たったところで終了。
わ〜4歳だぁ〜
わたしね、25歳までいったことあるよ〜
と、楽しそうに遊んでいた。
指の向きを躱し続けることで、年齢を重ねられるらしい。
何気なく問いかけてみる。
何歳までいったら、どうなるって意味なの?
遊びに意味を問うのは無粋だけど、なんか気になってしまった。
ん〜分かんない。死ぬってことかな?
あんまり、意味は無いよ。
と、次女。
そうだよな。
漠然と1歳より10歳の方がいいだけで、
遊びのうえでは、単位は何でもよいのだ。
ただ、最初の1回目が「存在しない」というのが興味深いなと思った。
*
生まれる前は、存在しない。
死は未来の全ての経験を喪失する。
だけど僕たちは、生まれる前には存在しない。
過去の全ての経験は永遠に喪失したままだ。
江戸時代も石器時代も、僕は存在していない。
言い換えれば、ある意味死んでいた時期がある。
死を考える際に言及される、
「存在しない」と「死」の違い。
そして、いつから「死」となるのか。
特定の精子と卵が出会って生まれた僕。
生まれてこなかった大多数の精子と卵。
僕は生まれ、存在してから死ぬ。
大多数の精子と卵は出会わずに存在しない。
世界中の男女(精子と卵)から計算すると、
1つの世代に存在し得た人間の数は、おおよそ
1,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000(10の33乗)人らしい。
そのうちほとんどが存在せず、
奇跡的な確率で生まれてきている。
存在すらできなかった人間を、
ふつう、残念だとか悲しいとは思わない。
いつから死が、残念で悲しいものになるのか。
*
子ども達に問うてみる。
存在しないのと、
生まれたばかりで死ぬのと、
5歳になってから死ぬのと、
どれがいちばん嫌なのかな?
小学生に投げる問いではない気もする。
死なない代わりに生まれないのか、
自我が確立する前に終わるのか、
喪失を自覚しながら終わるのか。
ん〜分からない!
存在しない、かな?
と長女。
もちろん分からなくていいし、
僕にも到底分からないのだけど。
なんと答えても構わないのだけど。
なんとなく、ほっとした気がした。
この子たちが存在していること、
それだけを手放しで喜んでいい気がした。
後部座席では、手遊びが続いた。