かけがえのないものではないから。
とあるキャラクターの、この台詞が好き。
この台詞を書きたかっただけな気もするけど、
「かけがえのないもの」について書いてみる。
かけがえのない命
「かけがえのない」の代名詞、命。
どれも唯一であり替えのきかない、尊い命。
ただそれは一般論としての事実であって、
「僕にとって」は、そうとも限らない。
僕にとっては、
僕や家族の命はかけがえのないものだけど、
僕にとっては、
知らない人の命はかけがえのないものではない。
ひどい人だと思われそうですが。
ひどいと思った、あなたに考えてほしい。
世界には4秒に1人のペースで飢餓で命を落とす人がいて、少しの寄付で延ばせる命があります。
あなたにとって、知らない人の命も「かけがえのないもの」なのだとしたら、なぜ悠長にnoteでも読んでいられるのでしょう。
ここまで読んでいる間に、少なくとも10人くらいは飢餓で命を落としている現実を、知らないということはないでしょう。
あなたはどのくらい、寄付をしていますか?
現地へ支援に行ったことはありますか?
あなたは無意識に結論づけているはずです。
海の向こうにいる誰かの1日の命よりも、
あなたを癒す1杯のコーヒーの方が、
あなたにとっては大切なのだと。
反論はあるかもしれませんが、
少なくとも僕はそう自覚して生きています。
もっと寄付すれば助かる命があると知っていて、
今日もお気に入りのコーヒーを飲んでいます。
全ての命は、尊く美しく貴重です。
ただ、僕のかけがえのないものではない。
そう割り切らないと、
僕は僕の人生を楽しめそうにありません。
僕はシリアの難民や日本の被災地に継続的に寄付をしたり、機会が得られれば現地支援に行ったりしていますが、「かけがえのない誰かの命のために」などと言ったことはありません。
非難されようが賞賛されようが、
「僕がやりたいからやっている」
としか思っていません。
大学入学前には寄付はやめるかもしれないし、
経営がピンチであれば現地にも行きません。
難民の方々や被災者の方々は、
皆がかけがえのない命を持っていますが、
僕のかけがえのない人ではないのです。
僕にとっての
僕にとってかけがえのないものは、
僕と僕の家族の命(人生)くらいでしょうか。
それ以外は
資産であろうと、
名誉であろうと、
命であろうと、
僕のかけがえのないものではありません。
では、かけがえのないものでないものは、
どうでもいい取るに足らないものなのか。
たとえば、このnoteのという場所。
沢山の友人と繋がったこの場所は、
かけがえのないものではありません。
文字を書きたければ、
何かを発信したければ、
誰かと繋がりたければ、
note以外のサービスもたくさんあります。
ここで出会った多くの方々も、僕が数年noteを開かなければ、大半の方々の意識から消えるでしょう。
僕が悪意をもって誰かを傷付けるようなことを書いたら、いとも簡単に多くの繋がりが切れてしまうかもしれません。
そして仮に、ここであなたとの繋がりが切れてしまったとしても、一時的な喪失感は感じるかもしれませんが、きっと僕もあなたもいつも通りの日常を過ごせるはずです。
しかしだからこそ、大切にする意味があるとも思うのです。
かけがえのないものなんかではなく、
いつ切れてもおかしくない、か細い繋がり。
お金のようにありふれたものでありながら、
お金のように替えがきくものではない。
そのくらいが心地よく、ちょうど良いのではないかと思うわけです。
かけがえのないものではないけれど、
それでも大切で、スキだという話でした。
ものは言いようの、言葉遊びですけどね。
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