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死について学び、考え続ける。
昨年の死の臨床研究会年次総会では、当時はあまり興味の待てなかった安楽死等に関するシンポジウムが大きく心に残った。
安楽死・尊厳死・医師による自殺幇助などを総して、ここでは安楽死等と記載しておく。
まず、読んだ本を読んだ順に紹介する。
僕のめちゃくちゃ大雑把な流れは
・安楽死等の問題や取り組むべき内容を考える
・安楽死等を求める当事者や家族の言葉を考える
・安楽死等を押し勧めた人の言葉を考える
・死そのものについて知る必要を感じる
という感じ。
最後に読んだ「死とは何か」のごくごく一部と、そこで考えたことの一部を、書いてみたい。
この本には、死について極めて論理的に、客観的に記されている。
二元論を明確に否定し、死することで生きていれば得られるはずの全てを永遠に喪失するという現実を客観的に突きつけてなお「死を恐れるのは論理的に誤りだ」と説明したりしている。
様々な論点で死について検討し、もちろん安楽死等を含む「自死」についても論じている。
自死についての本書の結論の一部を端的に紹介する。
自死は論理的に選択することが妥当な場合があり、そして倫理的・道徳的にも認められる場合がありえる。という旨の主張がなされている。
(僕が端的に書いた結論のごく一部だけを見て、本書の内容を憶測するのはやめてほしい)
ちなみに、自らの意思で死を迎えることの妥当性や、それを誰かに依頼することの正当性などを極めて客観的に論じているだけで、「そうすることで、日本社会や文化にどのような影響があるか」ということは論じられていない。
当たり前だけど、750ページ(縮約版は380ページ)を超えるこの哲学書を、ド素人の僕が要約することは不可能だ。
(ちなみにこの本には入門書と明記してある)
いたずらに一部を抜き出すことも、本当は控えた方が良いことだと思う。
だけど、あえて一箇所だけ言及してみたい。
「この本はあくまで哲学という学問の中の話なのかもしれない」と感じた箇所だ。
本人が自死を選択する妥当性を、愛する人(たとえば親など)が認めることについて論じている箇所だ。
だが、選択肢が限られている。一つは痛みや苦しみが続くこと、もう一つはその痛みや苦しみを終わらせること。なら、この人が今後の見通しを合理的に評価できて、自分は死んだ方が良いと合理的に結論を出せるのであれば、その判断に、彼を愛する人々も賛同するようになる可能性がある。この人には、二つしか選択肢がないという事実を、彼らは残念に思うだろう。いや、残念に思うどころか、呪うだろう。だが、それでも、この二つの選択肢しかないなら、苦しみを終わらせる方が良いという意見に、同意するかもしれない。だから、その人が自殺するなら、その選択を支持するかもしれない。少なくとも、もう痛みや苦しみを味あわなくて済む、と言うかもしれない。
この箇所は抜粋しても、比較的理解しやすい内容だと思う。
異論を唱える人も少ないような気がする。
ただ、この本の前に、くらんけ氏の本を続けて2冊読んだ後なので、どうしても引っ掛かった。
くらんけ氏は、それこそ死ぬような思いまでして死ぬ権利を得てスイスまで渡航したが、結果として死ぬことはできなかった。
その時点では死を選ぶことができなかった。
(ここも僕の文章では事実を正確に伝えることはできないので、彼女の本を読んでほしい)
幇助自殺を決行できなかった要因として最も大きいのは、両親の想い(を思う彼女の想い)であったようだ。
両親は、おそらく彼女以外の誰よりも彼女のことを考えているはずだ。
それも彼女の病が発覚してから、もしくは彼女が生まれてから、ずっとだろう。
彼女は「今後の見通しを合理的に評価できて、自分は死んだ方が良いと合理的に結論を出せる」人のように思える。
そして、両親はそのことを彼女以外の誰よりも理解しているように思える。
しかし、誰よりも理解しているにも関わらず、彼女の意見に心の底からは同意していないし、支持もしていない。悩み続けているように思う。
彼女の両親は特殊な例ではなく、
彼女への理解が足りないわけでもないと思う。
彼女がスイスで死を遂げられるように手助けした獄中の大久保氏や、
彼女に死ぬ権利を認めたスイスのエリカ先生、
そして安楽死等の法制化に賛成する人々。
彼らは彼女が死ぬという決定に同意し、支持するわけだが、それは「両親よりも彼女の死にたいという気持ちを理解しているから」ではないと思う。
ずっと彼女の人生と苦痛を見てきた両親が、そうでない彼らよりも理解できていないということなんて、僕には考えられない。
どれだけ合理的な理由があっても、
生によってわが子が苦しむと理解しても、
死によってわが子が救われると理解しても、
合理的に死を切望していると理解しても、
二度とわが子に触れられなくなるという現実に耐えられる親など、現実にはそう居ないのではないかと思う。
彼女の両親が自覚している通り、それは親のエゴかもしれないが、この感情を合理性や彼女への愛で抑えつけるのは不可能に近いと思う。
極端にいうと両親は、「私たちはあなたが死ぬという苦しみに耐えられないが、あなたは一切の苦しみに耐えてでも生きてほしい」と願っているわけだから、彼女にとって両親の想いは辛辣だと思える。
だけど僕は、両親の辛辣な願いを否定する気にはなれない。
もちろん彼女の死にたいという望みを否定する気にもなれない。
話が散らかってきたが、僕が引っ掛かったことをまとめる。
「ある人が自死を望むとき、愛する人がその合理的な決定をもって賛同し、支持する可能性があるらしい。しかし、くらんけ氏の両親が彼女が望む死を心から支持するという未来を、到底想像できない。彼女の気持ちを(おそらく彼女以外の他の誰よりも)理解したうえで、心の底からは支持できないのだから。この場合、可能性は全くないように思える。」
少なくとも入門書を読んだだけの僕には、哲学的にも現実的にもこの件を理解することは難しかった。
可能性がある、というだけなので、それが全くない場合もありえると言えばそれだけのことかもしれないけど、それではその場合の現実とどう向き合えば良いのだろう。
歯切れのわるいnoteだが、結論らしいもの取って付けるなら、もっと学び、現実の声に耳を傾けたいと思う、というだけかもしれない。
死について無知すぎる僕には、彼女が(今のところ)死ななかったという事実について良かったとか悪かったとか、そういうことは言えない。
ただの一読者として、彼女がスイスで死なずに、両親と共にこの本を書いてくれたことに感謝するだけだ。
そして彼女が「生きていて良かった」と思える時間が少しでも多く訪れることを願うしかない。
あり得ないと言われるかもしれないけど「もっと生きていたい」と心から思える日が来ることを願うしかない。
もしくは、矛盾するようだけど、あらためて死ぬことを決断できることを願うしかない。
僕は現時点で安楽死等を日本で法制化するべきか?という問題について賛成か反対かと問われたら、反対の椅子に座る。
僕の中で55対45の割合であっても、座っている椅子は「反対」であることを、あえて名言しておく。
(賛成・反対という二極であると誤解されるようなことを語るべき内容でないことを承知で、自分の現在地を把握するために、あえて対となる椅子を用意したい)
だけど、くらんけ氏が死を選ぶことは、反対できない。彼女は少なくとも彼女の生について、圧倒的に正しいと思う。
この僕の矛盾は(僕に絶望的に知識が足りないことに加えて)、僕がこの社会に求め問いたいことと、死を求める当事者個人に思うことは、同じではないからだと思う。
もっと学び、考えたい。
死は誰にとっても不可避で、
そして悪いものとは限らないのだから。
こんなに読みにくいnoteを最後まで読んで頂きありがとうございます。感じたことがあれば、遠慮なくコメントしてください。
「死について全く学んでいないから発言してはいけない」なんてことはありません。そこは僕も大差ありません。
ただし、僕へ疑問形で投げかけられたコメント以外は、基本的には返信コメントを控えさせて頂きます。きっと全てのコメントについて「共に学び考え続けよう」だと思います。