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薄曇りの日の支援職(11):配属ガチャと偶然性

このシリーズも思いつきで書いているので話はあちこち飛びますが、、、、
キャリコン界で人気のある理論というとクランボルツ教授の「計画された偶発性」が挙げられます(自分の周り調べ)
人生の出来事の80%は偶然によるものであり、偶然を引き起こすために必要な行動特性は<好奇心、持続性、楽観性、柔軟性、冒険心>であるというものです。この理論が人気があるのは実感としてわかるし、相談者にも伝えやすくグループセミナーなどでも使い勝手が良い

ただなぜ実感としてわかるのか掘り下げてみると、日本人のキャリア観に合っている点があると思っています。というのも日本のキャリア感には偶然の要素が見られます。多くのサラリーマンがそうであるように大学を出ると新卒一括採用されます。入る会社は決まっているが何の仕事をするのかはわからない。1〜2ヶ月の集合研修を終えると配属の内示をもらいます。営業、人事、開発、企画、広報、経理、、、とにかくこのタイミングまでどの部署で何の仕事をするかわからない。

配属ガチャ

と言われるやつですね、ガチャつまり偶然です。会社側としては概ねのリソース配置基準があり例えば大学でコンピューターサイエンスをやっていたらアプリ開発とかになる可能性は高いですが、理系が意外にも営業配属になることもありえます。最近は専門コース別採用などもありますが現在40〜50代のサラリーマンの新卒の時はそのようなものはなかったし、今でも配属ガチャの人の方が多いのではないでしょうか。

また、入社して数年経ってからの異動についてもどこに行くのかわからないことが多い。つまり日本的労働慣行はもともと偶然的な要素が大きいのです。

ところでここまでの説明で僕は”無邪気に”偶然という言い方をしていますがこれは後ほど訂正します。偶然とは何かを後ほど考える中で正確な言葉に置き換えたく、ここでは日常表現として偶然と仮置きさせてください。

またクランボルツの「将来何になるか決める必要はない」(『その幸運は偶然ではないんです!』)というメッセージについても日本人の新卒の多くはそもそも将来のキャリアプランを作っていない人がかなり多いのではないでしょうか。それだけに微温的な安心感に包まれることができる。

この僕の見立てが正しいとすると、クランボルツの計画された偶発性理論は日本的雇用慣行を追認するように作用してしまっているのではないかという点が気になります。それゆえ日本人にとっては耳障りがよく受容されているのではないかと。僕としてはクランボルツの理論を現状追認的ではなく、前に向かうものとして理解したいと思います。毎回哲学問答のようになってすみませんが、本稿では

配属ガチャは偶然なのか?

について、哲学の力を借りて深掘ってみたいと思います。そこからクランボルツの言いたいことの解像度が上がるように思います。
『いきの構造』(1930年)などで知られる九鬼修造という日本を代表する哲学者がいます。ここでは九鬼の『偶然性の問題』(1935年)をベースに配属ガチャは偶然なのか?について考えてみましょう。まず九鬼修造の偶然の定義から説明します。九鬼によれば偶然は大きく3つに分類されます

定言的偶然
ある概念に対し、たまたま個別化したものを指します。例えば人類という概念に対し私が日本人であるというのは個別化された偶然です。

仮言的偶然
二つの系列の出来事がたまたま出会うこと。例えば暴風によって屋根の瓦が落ちる、これは必然の系列。しかしたまたま落ちたところに風船が転がっていて破裂した。これは瓦の系列と風船の系列がたまたま出会ったということによる偶然です

離散的偶然
これが一番難しいのですが、定言的偶然で私が日本人であることは偶然と説明しました。九鬼はさらに思考を一歩進めて、私が他ならぬ<この私>であることは、因果の系列を無限に辿って行っても最後まで残る特異点のような偶然である。この偶然を離散的偶然と定義しました。

ここまでは大丈夫でしょうか。ところで我々が普通に思い描く偶然の中にはいろんなものがありますが、サイコロを想起することもありますよね。1が出るか6が出るかは偶然と思える。ところが九鬼はサイコロの目のような確率というものは”偶然ではない”と驚くべきことを言います。

要するに、確率論とは偶然そのものの考究ではない。「偶然」の「計算」とさえもいえない。偶然そのものは計算はできない。確率論が一定の視角において偶然性へ斜視を投げることによってその構造を或る程度まで目撃させることは否むことはできないが、偶然性の全貌に関して何ら把握を許すものではない。

九鬼修造『偶然性の問題』

バッサリと確率を偶然の問題から切り捨ててます。それは九鬼にとって1/6の確率というものはそれ以上でも以下でもない普遍的なものだからです。例えば私の父が癌になるというのは、確率的にそうなったという説明もできるがそれは確率の話であって、他ならぬ父、他人ではない<この父>が癌にななったことを記述するのが偶然の問題なのです。これは確率の言葉では記述できません。

ここまで長々と偶然の定義の話をしてきました。ではいよいよ配属ガチャの問題の検討に入りましょう。僕の見立てでは、配属ガチャという言葉には、あたかもサイコロを振ったようなイメージが込められていると思います。スマホゲームのガチャそのものですね。
そうなるとこの言葉は、他ならぬ<この私>に起きた出来事ではなく、どこか他人事というか確率の言葉になっています。偶然の問題が九鬼修造が切り捨てた確率の話にすり替わっているのです。
僕が思うにクランボルツのいう偶然は確率論的な偶然ではなく、九鬼修造的な偶然なのです。日本語訳だと同じ<偶然>という言葉でまとまってしまうのですが、クランボルツの使う英語原文では、僕が見る限りではありますがHappenstance,Chance,Accidentが使われています。
もしクランボルツがサイコロ的な意味で偶然というのならば、Randomness
と使うと思うんです。
”計画された偶発性”という訳語は間違っていないのですが、英語表現には偶然を表す言葉が多いということは注意しておきたい。偶然性ではなく偶発性と訳したところに苦労の跡も見られますが、九鬼修造的なニュアンスをこめるならば、”計画されたたまたま出会い性”とか”計画されたたまたま起きる性”とでもいうべきでしょうか。まあこれだと分かりにくいので、”計画された偶発性”がいい訳だとは思いますがクランボルツ先生の真の思いは正確に受け止めたい。

横道ですが、英語には偶然を表す言葉が意外に多いなと思いました。完全に私見ですが西洋ではキリスト教の影響下で必然性が世界の基本原理である。そこでは偶然という概念は忌み嫌われており、それだけに細かく分解して表現しているのかも。一方日本では偶然を普通に受け入れているので偶然という一言にいろんな意味が入ってても別に気にしない、、、

本論に戻ります。もし日本で”計画された偶発性”を配属ガチャと同一視するとしたら、クランボルツ先生の考えとは違っています。『その幸運は偶然ではないんです!』を読むとクランボルツ先生の上げる事例は九鬼修造的な意味の偶然で溢れている。だからこそ別な偶然の系列との出会いもあり最終的に望ましいキャリアにたどり着くんです。同書で挙げられている事例全ては登場人物の名前がついています、それは他ならぬ<この私>の偶然のナラティブだからだといえます。もし確率的な世界であるならば、そこには邂逅は存在しないのです。

配属ガチャという言葉には、以上のように他ならぬ<この私>に起きたという性質が抜け落ちてしまう面がある。さらには本連載で何度も言及している日本的雇用制度について、配属ガチャは確率論的な諦めに陥る態度にも繋がります。
偶然という言葉によって日本的雇用制度の問題点が見えにくくなる。そこにクランボルツの理論が”魔接続”されると日本的雇用制度の追認がなされてしまうのです。

もし日本的雇用制度が事実として確率論的な世界なのであればキャリアは主体的に変えようがない。しかしそうではなく偶然の世界ならば、5つの行動特性<好奇心、持続性、楽観性、柔軟性、冒険心>によって望ましいキャリアを作ることもできるでしょう。
























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