キャリコン課題図書「眼がスクリーンになるとき」福尾匠
福尾さんは26歳!本書は若き哲学者によるフランス現代思想家ドゥルーズの『シネマ』の入門書だ。福尾さん曰くドゥルーズの『シネマ』は映画論のようでいて哲学の本なのである。そもそもドゥルーズは映画こそがヒトが世界を認識するモデルなのだといっているので映画を論じることイコール哲学になるのだ。
ところで本書は入門でありながらも、高度すぎて哲学素人の自分には完全に理解できたとはいえない。そもそもドゥルーズの『シネマ』自体が難解であり、でも福尾さんの記述はめちゃくちゃ明晰で人を混乱させるようなところのない美文なのだがそもそも難しい話をしているので難しいのである。
そんなことなのでキャリコン的、カウンセリング的に役立つなと思った箇所を中心にレビューをしたい。
まずタイトルが興味深い。眼を映画の道具に例えるとすると一般的には眼=カメラではないだろうか。でも本書は眼=スクリーンとなっているがどういうことか、、元々はドゥルーズが『シネマ』で、眼がスクリーンと言っているからこのタイトルなのだが、ドゥルーズ本人の記載よりも福尾さんがこのタイトルにつけた気持ちが強いように思える。
映画を構造的に説明すると、フレーミング、ショット、モンタージュに分解できる。フレーミングとはコマひとつひとつのことであり、例えば1秒間に24コマなどで作られている(4Kだと50コマ)。そのフレーミングのひとつながりがショットである。バラバラのコマが映写されると男が走っているように見える。さらに重要なのがモンタージュだ。これはショットとショットがショットの外側に生み出す意味のことだ。福尾本の例では、食べ物のショットがあり、次に無表情の男のショットがあると。男が空腹でいる状態、、のような意味が生み出される。この時男にセリフがなくてもあるショットとあるショットが連続するだけで意味が生み出される。
またAとBが対話しているショットがあって、次にAだけが映るとBが映っていなくてもそこにBがいることが観客にはわかる。これもモンタージュの技法だ。
僕らは普通に映画を見ていてこんな風にいつも意味を見出している。別に難しいことではなくごくごく常識的な体験だ。でも改まって言われると不思議なものである。
ところで『シネマ』でドゥルーズはベルクソンの哲学に大きな影響を受けているのだが、映画に関してはベルクソンを批判している。ベルクソンは上記のようなモンタージュの仕組みを映画的な錯覚を利用したものであるとみなしているのだが、ドゥルーズは錯覚ではなくそもそもヒトが世界認識をする仕方自体が映画なのであると過激なことを言っている。ここは『シネマ』の要点でもあるし、福尾本の要点でもある。タイトルの『眼がスクリーンになるとき』にも関わるポイントだと思う。
ヒトが世界を見るとき、ショットとショットのつながりとしてみているとも言える。瞬きをすれば一瞬対象物は消えるけども連続したものとして認識しているし、対象から目を一瞬離して再度みた時でも連続したものと認識している、物理的にも可視光が目に届くには超超超わずかな遅延があるわけで原理的にはバラバラの対象物の画像が連続したものとして再構成されているのだ。
そこから意味を生成するのがヒトの世界認識だ。対象物の中をいくら調べても意味がでてくるわけではない。ショットとショットのつながりから意味が生成されてるのだ。これって映画そのものだよね、、というわけである。
もし眼がカメラになるには、眼が対象を主体的に”見る”行為が必要なので眼に主体が宿っていないといけなのだが、ドゥルーズ=福尾的には眼はスクリーンなのであって、受容的にフレームとフレームが投影される場つまりスクリーンなのだ。眼というスクリーンに投影されたフレームからショットが構成され、さらにモンタージュという意味が生成される。だから眼はカメラではなく、スクリーンなのだった。
そう、受容的、、、ここからはキャリコン的なカウンセリングの話になるので単なる僕の感想だ。
カウンセリングの基本は傾聴だと言われる。傾聴について傾聴大学学長で公認心理士の岩松さんがXでこんなふうに言っていた
”内側で再現”って傾聴とは何かをうまく説明するいい言葉だね、これを『眼がスクリーンになるとき』に引き寄せて考えてみよう。
相談者の語る言葉や態度は映画で言うとバラバラのショットである。困難を抱えている人はうまく説明できないことも多いしそもそも思い出したくもないことだってある。でも何がしかの言語/非言語のメッセージがありそれは一つの連続としてその人を構成している。
カウンセラーはそのバラバラのショットをモンタージュとしてその人の感情を自身の内側で再現する必要がある。一見バラバラの言語/非言語のメッセージの外側に意味が生成されてくる。
カウンセラーの眼はカメラではない、というかカメラであってはいけない。”見る”という行為そのものに相談者と先生みたいなポジションの上下関係とか自分の個人的な興味が出てしまうのだ。
カウンセラーの眼はスクリーンだ。相談者の言語/非言語のメッセージをまずは受容し、スクリーン上でモンタージュを再構成することにより相談者の意味を生成する。
福尾『シネマ』本では、世界認識の方法を、眼=カメラは”運動イメージ”であり、眼=スクリーンは”時間イメージ”であると分類している。
ここはドゥルーズの『シネマI』、『シネマII』と対応関係にありかつベルクソンのイメージという概念を使った難解な箇所なので僕ではうまく要約できない。一応自分の言葉で考えてみる
映画というのは持続の芸術様式だ。運動も持続ではあるが時間もまた持続である。運動においてはある主体の中心がありそれは常に現在なのである。運動する主体から時間という概念が生まれる。物体がAからBに動いたら、ああ時間が経ったんだなと解釈できる。運動から時間という概念を抽出できる。なので運動に時間が従属している。
一方で時間を軸に考えると、主体という中心はなく状態が流れてゆくものがある、それは常に現在からは逸脱している。物体がAからBに動くのではなく、時間の持続の中で状態がAからBに移行しているが、モンタージュとして再構成したら、状態Aも状態Bも同じ物体が動いたと解釈できる、、、ような感じ。ここでは時間に運動が従属している。
どちらが正解とかいい悪いではなく、世界認識の方法には二つがあるということだろう。
あえてカウンセリングに寄せて考えると、相談者と向き合った時に最初から運動する主体を想定するのではなく、時間の持続の中でバラバラに見えるショットをスクリーンに投影することで相談者その人、相談者の人生そのものをカウンセラーの内側で再構成することと言えるのではないか。
まあ普通に読んだら難しすぎてわからないのであるが、カウンセリングに使える視点で読んでみるとそれが補助線になり脳に染み込むようにしっくりきたのでキャリコン課題図書にしました。