「忘れる」ススメ
過去の記憶が触発されて感情的になってしまうことってありませんか?
目の前の出来事を過去の出来事に照らし合わせてしまって、なかなか解決出来なかったり。
例えば、辛い記憶が多い人は振り切るように刹那的になったり、過剰に奉仕に勤しんだり、何かと自分を投げ打ちがち。
例えば、楽しい記憶が多い人は、目の前の事にもポジティブに受け止め、生きるのが楽であったり。
私は“辛い記憶が多い人”なので、辛さを連鎖させたくないと積極的に解決しようとしたり、過剰に奉仕してみたり、相手に合わせて自分を蔑ろにしがち。
本来の自分の力を辛い記憶のせいで発揮出来ていない人は多いと思います。
逆に今の辛い状況を過去のせいにもしてしまえます。
どちらにせよ覚えている事ってなかなか大変です。
辛いからこそ覚えているとも言えるし、忘れられない。
むしろ忘れられないから、辛い。フラッシュバックする。
きっと忘れられない人って真面目なんだろうなって思います。
律儀。隙がない。だから余計に辛い。生き方そのものが疲れる考えになってしまっている。
ちょっとルーズになってみませんか。
色々と忘れちゃいませんか。
辛い事も忘れてしまいましょう。真面目に覚えていて、解決しようとか乗り越えようとかしなくていいんです。
忘れた方がいい事ってのも確かにあるんです。
忘れるルーズさが無いから辛い。
いきなりですが、
自分は信仰を持たないようにしています(広く世界を捉えたいため。世界が狭くなる可能性があるので一つのものを信仰したいとは思わない、学ぶのは面白いので話を聞く事はある)
信仰を持つ人(古代から続く宗教)とお話をしていると、こだわりが強かったり過酷な人生の人が多い印象です。独特な考えを発達させている人も多い。それ故に孤立している人も多い。
そんな方とお話していると信仰の内容も踏まえた上で、
辻褄が合ってないと混乱してしまう、もしくは辻褄を合わせたいのが人間なのかな?その辻褄が合ったときが「救い」なのかなと思います。
(死への恐怖って信仰の理由になる事が多いと思います。生まれてきて色々積み上げてきたのに死ななきゃいけないって理不尽で辻褄が合わないですよね。救われたいのも分かる)
信じるものは救われるとはよく言ったもので、自分が思う「辻褄の取れた道」と一致すると救われる。(例えば悲惨な自分を肯定してくれるとか、辻褄が合う事は安らぎとも言える)
そこまで考えると、もはや人生の辻褄を合わせようとすること自体が1人の人間では結構困難な事なんじゃないかしら?と思えるのです。
辻褄を合わせようとするというこだわり。
バランスを保とうとする。
辻褄を合わせたいと救いを求めてしまうくらいの極端な記憶。
辛い記憶って、忘れられ無いのはきっと辻褄を合わせたいからなんだと思います。
自分が受けた辛さに対する、シーソーで言えば“向こう側”をどうにかしたい。
どうにかして同じ重さにしないと、浮き上がれない。
色々と頑張る。同じ重さにしようと、真面目に。
真面目な人が心を病むって言いますが、辻褄を合わせようとする真面目さが病む原因なのかも。
バランスを取らないといけないと思い込んでいる。
それに、そのバランスのラインも実の所とても高いの位置なのかもしれない。今の自分では到底到達できないくらいの。(この辺は自分が自分をどう捉えているかによって高さは変わると思います。自己否定しがちだとラインは高くなる、肯定的だと低くなる)
こだわるという事は時に心を破壊します。
忘れた方が良い事は絶対にあるし、辻褄が合ってなくても生きて行ける。
そんなシーソーは降りて良い。あっちのブランコに行こう。気持ち良いよ。
ブランコに飽きたら、滑り台、滑り台に飽きたら砂場、色々行って良い。
真面目にシーソーに座ってなくて良い。
その真面目さが、きっと困難が増す原因。
もっとルーズになって良い。むしろルーズになった方が良い。
私も辛い記憶を思い出しては相手にバランスをとらせようとしていましたが、
そんな事にこだわる前に、忘れるという“心の余裕”を身につけた方がよっぽど良かったなと思います。
自分の中で辻褄を合わせたがるのが人間なら、
忘れる事が出来るのも人間だと思います。
この素晴らしい機能、使わない手はない。
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