破壊の先、本来あるべき姿へ。
この際、労働とか、そんな社会的活動は、一切消滅してしまえばいい。
「働く喜び」
そんなことを言う人間は、今やもういない。
もうこれ以上の労働は、幸福のためになんかなりゃしない。人々の傲りや、怠惰、虚無だけが、満ちていく。
きっと、僕らの祖父母世代の頃は、まだインフラも不十分で、不便も多かった。戦後復興の種火は、猛々しい炎となり、働き手の魂を燃やし、彼らの労働が人々に便利さを還元する。「社会のため」「人のため」…なるほど、頷ける。
しかし、今となってはどうだろう。
人々の労働は人々の娯楽として溶けていき、やがて人々の下劣な快楽にのみ還元されていく。
「物理的な不便さを埋めること」
労働が、豊かさが、「我々が本当に欲してる意味」での価値を成すのはここまでなのではないだろうか。
人々の娯楽を埋め合わせることは、働き手が1日のうちの8時間をかけてするべきことだろうか。
ぼーっと横たわっていたとしても、ある程度の快楽が掌の上で受信されてしまう現代。能動的でエネルギッシュな人間の快楽を探そうとする試みは、失われてしまった。
働き手は働き甲斐を見失い、豊かさを享受する人々は、自ら大地を踏みしめ、鳥の囀りに気持ちを躍らせ、山頂、河原、あるいは緑一色に揺蕩う平野のその景色…それらが持つ神秘さを、忘れてしまった。
「知った気でいる」
上記の未知による神秘は、私たちの持つ薄っぺらな板一枚に、破壊されてしまった。
画面に映る全てを見て、全てを知った気でいる。
単純に、大量の情報に理解が追いつかないことによる思考停止(そう考えると無量空所って現代風刺だな)もあるけれど、「知った気でいる」ことは、人々の能動性を損なわせる大きな一因として確かにあると思う。
これが我々人類の求めた「豊かさ」の結果である。
人々の濁った瞳を目にするのは、とても心が痛むけれど、同時に「自業自得じゃないか」と叱責してやりたくなる。
やめにしたいだろ、こんなバカなこと。
外に出よう。星を見よう。炎の水、砂の雪原、氷の大地。あの2人だけじゃない。本当はまだ、僕らだって何も知らないんだ。
未知の神秘に触れた時、本当の意味で、世界も幸福も自分もひとつに融け合うような、えも言われぬ感動、感覚を全身全霊で感じ、言葉より先に涙が溢れてくるのだ。
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