【R19:STORY】キャバレー・シンガー Laura Pink
ミュージカルソングやJazz、R&B、日本の歌謡曲など、幅広いジャンルの曲を自己流にアレンジしてパフォーマンスするキャバレー・シンガー、Laura Pink(ローラ・ピンク)。幼いころから音楽に親しみ、自分らしい表現を模索してきた彼女が、キャバレー・スタイルと運命の出会いを果たすに至った軌跡とは。
指導者に恵まれ、音楽の道を志した幼少期
宮城県塩釜市出身のLaura Pink(ローラ・ピンク)は、お姫様やドレスなど、可愛いものが好きな子どもだった。
「昔から『ピンクは私の色!』と言っていました。アーティスト活動を始めるときも、自然に、この名前を使っていましたね」。
基本的にはのんびりとしているが、意見があるときは、はっきり主張する性格だった。
「小学生のころ、運動は苦手でした。でも体育の授業は好きだったんです。なのに通信簿で『体育の授業を楽しんでいる』という項目に『もう少し』をつけられてしまったときは、すぐ抗議しました」。
おかしいと感じたことはそのままにせず、議論しようとした。
「学芸会のとき、殿様の役に立候補したら、先生に『男の子じゃなきゃダメ』と却下されたことがあります。納得できなかったので抗議して、母にも訴えました。その結果、女の子もオーディションに参加できることになり、嬉しかったですね」。
そんな彼女は、生まれたときから音楽に囲まれて育った。
「父はドラムの演奏が趣味でした。母は音楽教室をやっていて、『音楽嫌いを作らない』をモットーに、ピアノとエレクトーンを教えていました」。
Laura自身は、母親の知り合いが運営する音楽教室に通っていた。
「当時は、ただ楽しくやっていましたね。ピアノの練習はあまり好きじゃなかったけど、根拠もなく『私は出来る』と思っていました」。
小学校高学年からは、ピアニストの石垣弘子氏に師事した。
「先生から『Lauraちゃんは音大に行きたいの?』と聞かれて、『行きます』と答えた記憶があります。先生は驚いていらっしゃったけど、時間をかけて、コツコツと指導してくださいました。あのころの私は『音大に行きたい』どころか、『行くのが当然』とさえ思っていたんです」。
しかし、宮城学院中学校へ進学してすぐ、カルチャーショックを受けた。
「キリスト教系の学校だったので、毎日賛美歌を歌ったり、音楽が身近にある学校生活でした。『世の中には、こんなに上手な人がいるんだ』と、自分が井の中の蛙だったことを思い知りました」。
それでも、音楽への情熱は消えなかった。中学2年生からはミュージカルアクターになる夢に向かい、バレエを習い始めた。高校卒業後、ミュージカルの専門学校や短大へ進学することも考えたと言う。
「でも、作曲家の岡崎光治先生から『クラシックは基礎だから。何をするにしても、まずは基礎をしっかりやった方がいい』とアドバイスをいただき、音大の声楽科に行こうと決めました。大学以降もですが、多くの先生方が導いてくださったおかげで、今の私があります。とても感謝しています」。
自分らしい表現をするために、日本の文化を知りたい
国立音楽大学演奏学科声楽専修に進んだLauraは、大学のカリキュラムはもちろん、課外活動でも技芸を磨いた。
「毎週土曜日には、佐藤峰子先生や山本佳代先生など、素晴らしい先生方にご指導いただくオペラの勉強会へ参加していました。舞台制作の準備段階から関わって、役者はもちろん、ピアノの譜めくりなどの裏方も経験させてもらいました」。
1年生のときには、モーツァルトが作曲したオペラ『フィガロの結婚』のケルビーノ役を演じた。「出番は数分でしたが、一曲入魂で頑張りました。そのとき練習した曲がきっかけで、他のコンサートに出られたこともあります。思い出深いですね」。
2年生からは、国立総合児童センター(通称・青山こどもの城)でアルバイトを始めた。「大学で募集を見つけて、面接に行きました」。
Lauraが任されたのは、ファミリーコンサートにおけるリードヴォーカルとMCだった。「自分ならできると思っていたんです。でも実際には、全然上手くいかなくて。子どもって素直だから、つまらないと思ったら聞いてくれないんですよね」。
「色々な人の仕事を参考に、バックバンドの皆さんにも支えられて、少しずつ子どもたちと心を通じ合えるようになりました。最後のころは『みんなWelcome!』みたいな心境でした。随分と鍛えられましたね」。
様々なチャレンジをしていくなかで、「ミュージカルがやりたい」という思いは強まる一方だった。しかし3年生のとき、本場ニューヨークのブロードウェイに足を運び、衝撃を受ける。
「日本人が演じる、日本のミュージカルと全く違ったんです。『ミュージカルはアメリカの文化なんだ』と強く感じました。アメリカ人は、歌も振り付けも、本当にナチュラルにやるんです」。
Lauraは羨望の眼差しを向けるとともに、疑問を抱いた。
「私も、ブロードウェイの役者たちみたいに、ナチュラルな表現をしたい。そのためにはどうしたらいいんだろう?って」。
物心ついたころから音楽に触れて育ち、大学ではさらに専門性を磨き、歌や演技のスキルが向上している実感はあった。
だが、自分の表現には、芯が無いように感じられた。
「アメリカのミュージカルには、アメリカ人そのままが出ていました。私が私としてやるとき、私は日本人だから、日本の文化を軸にするべきでしょう。でも、『日本の文化ってなんだろう?』って。私は日本のことをよく知らない、と気づいたんです」。
答えを探しながら、4年生に進級。前述のワークショップにて、團 伊玖磨が作曲したオペラ『夕鶴』に取り組んだ。「鶴の恩返しを題材にしたオペラです。同級生はイタリアやドイツのオペラを選ぶなか、私だけ、日本の作品をやらせていただきました」。
「明治維新以降、日本は急速に西洋化しました。そういう歴史だから、しかたのないことです。私は現代の日本で生まれ育ったし、日本のミュージカルも好きです」と、Lauraは語る。
「今の時代、誰がどんな表現をやってもいいと思います。年齢も性別も、国籍も関係ありません。でも、やっぱり、クラシックの本場はヨーロッパで、ミュージカルはアメリカ。私が私として、どんな表現をすべきかという問題を解決するためには、日本の文化を知る必要があると思いました」。
そうして行きついたのが『歌舞伎』だった。
「音楽と踊りと芝居が融合した日本古来の文化ですし、その道を極められた方の近くで働けば、より多くの学びが得られると考えました。就職活動の面接では『日本の文化を学びたい』という志望動機をそのまま伝えています。ご縁をいただいて、就職が決まって、本当にありがたいことでした」。
歌舞伎の世界に入ると決めた時、「歌はあきらめたのね」「やめちゃうのね」と言われることもあった。
Lauraには、そんなつもりはまったくなかった。
「自分が表現をするために、必要な道のりだったんです」。
歌舞伎界での経験を経て、渡米
就職後は、働きながら舞台の稽古や本番を間近に見るだけでなく、自身が日本舞踊や三味線を習う機会も得た。
Lauraが歌舞伎界で働いた9年間は、歌舞伎界の400年以上の歴史からすると、ほんの数年だ。
だが彼女は「大変貴重な経験をさせていただきました」と振り返る。「役者さんから裏方さんまで、さまざまな役割の人がいての歌舞伎。一階の桟敷席から三階の最後列までのお客様に応援していただいての歌舞伎です」。
「何より私の財産は、歌舞伎を心から愛する人たちに出会い、その空気を肌で感じられたことです。自分の引き出しを増やすことができました。十五代目片岡仁左衛門さんをはじめ、お世話になった皆さんに感謝の気持ちでいっぱいです。歌舞伎界で教えていただいたことは、日々活かされています」。
一方で、自身の音楽活動も継続していた。
NHK交響楽団のベートーヴェン『第九』合唱や、仙台市を拠点とする混声合唱団『萩』がニューヨークのカーネギーホールで開催した東日本大震災へのチャリティコンサートに参加。
さらにLauraの母親がプロデューサーとして制作に関わった『塩釜夢ミュージカル』に出演したり、音大時代の友人と東京でコンサートを開いたりと、活動の幅は広がるばかりだった。
「大学や地元の繋がりで、幾つかのステージに立っていました。そのうち、周りから『自分の表現活動に集中した方がいいんじゃない?』という声が聞こえてきて。パートナーにも背中を押してもらって、覚悟を決めました」。
17年に歌舞伎界の職を辞し、渡米。当初は一週間ほどの滞在だった。
SNSを通じて知り合った現地の女性・Mercedes Denisと意気投合したことが、さらなる転機を呼んだ。「『私の家に住めばいい』と言ってもらったんです。『家賃もいらない』と」。
しばらくの間、観光ビザを利用して彼女の家に滞在し、ビザが切れたら日本に戻るという生活を送った。「彼女はフィラデルフィアに住むアフリカンアメリカンでした。そのコミュニティにポンと入ったことで、観光では分からないことを沢山知ることができました。人種が違っても、みんな私と同じ人間で、理解しあえるということも」。
現地の図書館が開催している英会話講座に参加したり、学生時代の友人・Jackie Murchieにサポートを受けたりと、語学にも勤しんだ。
「歌は言葉だから、伝わらなかったら意味がありません。発音は特にチェックしてもらっていて、今も頑張っています」。
さらにTahira Zumerに師事し、ベルティング歌唱を教わった。
19年にはワーキングホリデーを利用し、カナダのTracy Michailidisのもとでミュージカルを学んだ。
「彼女は現役の役者でもあるので、細かなところまで指導してくれました。特に『言葉を感じる』ということを徹底的にやりました」。
現地でのミュージカルやNetflixの映像作品に幾つか出演したが、釈然としないものを感じていた。
「向こうで役を得ようとすると、やっぱりまだ、ステレオタイプが必要でした。『アジア人』というイメージを求められて、髪を黒く染めたり。表現の幅は狭まるし、私がやりたいこととは違うな、と考えていました」。
キャバレー・スタイルとの運命的な出会い
葛藤していたある日、友人とともに、ニューヨークのハンバーガー屋へ遊びに行った。「その店は、ミュージカルスターの卵たちが働いていて、朝から晩までひっきりなしに歌っていることで有名でした。店内に渡りステージのようなものがあって、ウェイターはみんな、仕事をしながら歌うんです」。
Lauraたちが訪れた日は、偶然、スペシャルイベントが行われていた。そのゲストとして出演していたのが、Marilyn Maye(マリリン・メイ)だ。
Marilynは、アメリカン・ジャズ・ミュージアムなどから生涯功労賞を贈られ、Ella Fitzgeraldからは”The greatest white female singer in the world.(白人女性の中で世界で一番素晴らしい歌手だ)”と賞賛された、伝説のキャバレー・シンガーである。
「彼女のステージを見た瞬間、ビビッと来ました。そのころ、Marilynは90歳でしたが、まったく年齢を感じさせない歌声とパフォーマンスでした」。
家に帰ったLauraは、すぐにインターネットで検索し、Marilynのマスタークラスへ応募した。10人ほどのレッスン生が順番にステージへ上がり、歌を披露する形式の公開レッスンだった。
初めてレッスンに参加したLauraは、ステージ上のマイクに対して戸惑った。
「ずっと声楽やミュージカルを中心に学んできたので、マイクを通して歌う練習をほとんどしていませんでした。でもMarilyn Mayeのキャバレー・スタイルには、マイクが欠かせません」。
不安を口にしたLauraに対し、Marilynは「マイクはベストフレンドだと思って歌いなさい」とアドバイスしてくれた。「いい意味で開き直れました」。
Lauraは、カナダでTracyに教わっていた楽曲『I Got Lost In His Arms』を披露。「当時の自分が一番真剣に向き合っていて、歌える曲を選びました」。
「Marilynの前で歌うと、なんだかとても歌いやすくて、今までにないほど、自分の声を温かく感じたんです。彼女が、余計なものをそぎ落として、素の私を引き出してくれたんだと感じました」。
歌い終わると、驚くことに周囲の人々は涙を流しており、Marilynからはプライベートレッスンに誘われた。「私も『自分がやりたかった表現はこれだ』と、手応えを感じていました」。
その思いは、レッスンを重ねるたびに確信へ近づいた。
決定打となったのは、20年2月、ニューヨークのDizzy's Clubで開催されたMarilyn Mayeのコンサートだ。
「70分間のショーが、まったく途切れないんです。開演から終演まで、途中にトークを挟みながらも、ずっとお客さんとコネクトしている。20曲以上、曲調を変えて、メリハリをつけながら、切れ目なく歌うんです」。
キャバレー・スタイルでは、あらゆるミュージカルの楽曲を歌えるということも、心に響いた。
「ミュージカルでは役になりきって歌うけれど、キャバレー・スタイルでは私自身として歌えます。それまで『この曲が好きで歌いたいけど、私にはこの役を演じられない』と悩むことがあったけれど、キャバレー・スタイルなら問題ありません」。
キャバレー・シンガーとして活動していこうと決めた瞬間だった。
直後、コロナ禍によって渡米できなくなったが、Lauraは歩みを止めなかった。ビデオ通話アプリを通じ、Marilynに自分の決意を伝え、オンラインでレッスンを重ねた。
21年6月17日には、渋谷にあるライブハウス・LOFT HEAVENにて、デビューコンサートを開催。いよいよ、キャバレー・シンガーとしてキャリアをスタートさせた。
今後の展望を聞くと「まずはショービジネスを成立させられるように、携わる人たちとのフレンドシップを大切にしながら活動していきたいですね」。
Lauraには、歌舞伎界で働いていたころから、胸に刻んでいる言葉がある。
「役者さんに『自分らしい表現をするにはどうしたらいいんでしょうか?』と質問したら、『続けることだ。いつでも、やりたいことだけやれるわけじゃない。だけど続けていたら、どこかで道が開けるかもしれない。辞めたらそこで終わりだ』とお答えいただいたんです。その道を極められた方の言葉は、説得力が違いますよね。だから私は今日までチャレンジを続けてきたし、実際、道が開けていっています」。
90歳を超えてなお、現役のキャバレー・シンガーとして活躍しているMarilyn Maye。その背中を追いかけるLaura Pinkがどこまでキャリアを伸ばしていくのか、はかりしれない。
10年後、20年後、いや50年後。
彼女がどんな表現を魅せてくれるのか、楽しみだ。
text:Momiji photo:Yui Matsukawa
INFORMATION
2021.07.23(Fri) open 15:00 / start 15:30
『月の御馳走』
[会場] 江古田マーキー(東京都練馬区豊玉上1-10-10 江古田スカイビルB1)
[料金] 前売 ¥3,000(+1drink) / 当日 ¥3,500 (+1drink)
[出演]vo.Laura Pink key.大友孝彰 ba.寺尾陽介/ vo.吉川水砂子 gt.原とも也
※Laura Pinkと吉川水砂子のツーマンライブです。