来ることの無い「未来」を愛して
突然ですが、私には妊娠歴があります。しかし結婚歴も出産歴もありません。死産──正確には、中絶手術をしました。
これは私の黒歴史である。
「いきなり重っ」と思った方、申し訳ありません。今回の内容は恐らくほとんどこんな感じで進みます。
「教育」と称した性的暴力
中学の終わり、初めての彼氏が出来ました。兄の友人でしたが、半分以上兄に脅され強要されて付き合い始めたので特に関わることも無く、一年ほど名前だけの恋人関係を続けた後に別れました。その後初恋の人とのお付き合いがありましたが、私が自分に自信が持てず、早々に別れました。
この頃、私は人生最高潮のモテ期だったので、告白されるままに男を取っかえ引っ変え。今思うと割と男性に失礼で申し訳ない最低な扱いをしまくっていました。歳上の方がほとんどだったので、最早彼氏をATM扱いしていたこともあります。更にぶっちゃけると「彼女」が居たこともあります。
高二の夏、当時付き合っていた男性と駆け落ち同然で家出しました。一日で連れ戻されましたが。
その年の秋、誕生日前の16歳の時だったと記憶しています。突然兄に部屋へと呼び出され、その家出の時の彼氏の話を持ち出されました。
「まだ続いとんか?」
「あの後すぐ別れたけど」
だから何。
当時の私は、既に兄が嫌いでした。常々威圧的で暴力的な、支配者のような兄を恐れていたので、逆らう術などありませんでした。
その兄が、その時の彼氏(だった人)に相談されたそうです。私に性的な手出しをしたいが、怯えるので出来ない、と。
私にとって「無知」は恐怖の対象です。ここでは詳細は省きますが、当時私には知らないことが今よりもあまりに多く、世界は怖いことで溢れていました。性問題もその一つです。
兄は言いました。
「お前を教育してやる」
「まずは脱げ」
その日から兄による性的暴力が始まりました。加えてそれ以前からの身体的暴力も、それから先も変わらず続きます。苦痛は恐怖に押さえ付けられ、逃げることも誰かに訴えることも出来ませんでした。
無排卵月経
その後、兄による性的暴力は、具体的に言えばおよそ四年程、成人後まで続きます。その後も兄は諦めたわけではありません。何とか回避手段が出来たというだけのことです。(後述)
違和感を覚えたのは、高校を卒業し、専攻科へと上がった頃のこと。14歳から始まっていた生理が安定しない、というのはずっとありましたが、それに加え、
「避妊してくれていないのに妊娠しない」
ということに気付いたのです。この頃、週に一回以上、酷い時には毎日のように強姦されていました。
病院に行ったのは、元々の目的としては妊娠する心配を完全に無くすため、ピルを貰うためでした。そこで問診を受け、血液検査を受け、結果として言われたのが
無排卵月経
妊娠の心配をしなくて済むようになった反面、女としての自信は地の底へと落ちました。
妊娠と中絶
専攻科を卒業し、看護師の国家資格を得て、20歳で実家を離れ県外に就職しました。この頃、兄は結婚したばかりでした。恐怖の対象である兄との関わりを出来るだけ断ちたくて、実家で同居していた祖母には「絶対に兄には私の一人暮らしの住所は伝えないように」と念押しをしていました。
ですが、一人暮らしを始めて間もなく、祖母からのこんな連絡がありました。
「アンタに届ける荷物、お兄ちゃんに持たせたけんな」
住所を伝えないように頼んでいたのに、何故こんなにもあっさり教えてしまうのか。私の願いを聞き入れてくれないのはこの時始まったことではなかったけれど、それでもこれには絶望しました。
案の定、兄は私の一人暮らしの部屋に入って来て、いつものようにやることをヤッて帰って行きました。何度か友人宅へ避難もしましたが、待ち伏せされていたり、帰った振りをして出待ちをされていたりと逃げ切れず、結果は同じでした。
更には避難先にしていた部屋の友人まで、酔って寝ている私に手を出してきました。
その年の7月。生理が止まっていることに気付きました。元々月経不順はあるし、無排卵月経と言われたこともあるし、「いやいやまさか(笑)」と思いながら市販の妊娠検査薬を試してみたところ、まさかの陽性。
当時一番信頼していた高校時代の先輩(看護師ではない)に連絡をし、付き添ってもらって病院に駆け込みました。
妊娠は確定し、9週目、と言われました。
無排卵と言われていたところから妊娠できる身体になったことへの喜びや希望と、望まぬタイミングで妊娠してしまったことへの不安や絶望がないまぜになって、産むか否かとしばらく泣いて悩みました。
だけど、どれだけ悩んでも、導き出せる結論は一つしかありませんでした。就職したばかりでお金は無く、結婚もしていない。タイミングとしては友人も怪しかったものの、お腹の子の父親が実兄かも知れないだなんてとても人には言えない。祖母をはじめ、頭の固い家族が理解してくれるだなんて到底思えない。まだ20歳になったばかり、仕事でもペーペーで、社会を生き抜く術も知らなければマナーも、そもそも常識すら無いような子供。
産んで未来をなんて、夢でも見ることは出来ませんでした。
今でもよく覚えている、中絶手術をしたあの日は、雲の少ないよく晴れた暑い真夏日でした。
憎しみ
その後、結局祖母や家族にバレて実家へ連れ戻されることになりました。けれど兄は「自分は結婚しているから、そんなことをするわけが無いし理由も無い」と完全に頭から否定、祖母や家族も「お前が悪いんやろ」と私だけに責任を問いました。
一時でも確かに存在した小さな命。それを私の妄想だと言い切ったこの男を、私は一生許さないでしょう。
ところで中絶手術の同意書には、相手の男性の名前も必要になるんです。そんな兄が素直に同意書にサインなんてしてくれるわけがありません。
一人暮らし先で避難先にしていた友人がこれを引き受けてくれました。「自分の子かも知れない。そう思いたいから」と。手のひら程の箱に収まってしまった小さなあの子の身体も、彼の関係の地で埋葬して貰えることになりました。
ほんの1ヶ月も経たないうちに、私はこれを後悔することになります。
端的に言えば、彼と喧嘩をしたのです。元自衛隊の彼と、元自衛隊の兄を持ち無駄に知識を入れられた私。ほとんど殺し合いにも近しい取っ組み合いの喧嘩でした。
喧嘩の原因は、私だったと思います。彼は私と恋人同士として付き合っているつもりだったそうです。だけど私には全くそんなつもりは無かった。彼を好きになったことも無ければ、付き合っていると思ったこともありませんでした。つまるところ、私の中途半端な態度がきっかけでした。
要するに私が悪いのでしょう。だけど彼は、先に述べた言葉を吐いた同じ口で、喧嘩の流れとは言え、こう言ったのです。
「子供の墓、邪魔やけんどけて」
悪かったのは私でしょう。けれどこれはどうなのか。産まれてくることすら出来なかった、何の罪も無い子を蔑ろにする発言。
私は彼のことも許すことは出来ません。
贖罪
これらのことをきっかけに、私は重度の男性恐怖症を患うことになりました。今でこそ仕事では支障も無いし、宴会などのノリで一瞬程度なら近付いても大丈夫ですが、基本的には男性に触れることはおろか近付くことも難しいです。具体的に言えば、不要であったり過度であったりするような接触で過呼吸を起こします。
これは、学生時代、男性をざつに扱っていた罰なんだろうと思っています。
もう一つ。元々は全く無かった生理痛が、中絶手術の後からひどく重くなりました。薬を飲まなければ動くことさえ大変なほどに。
これは、ひとつの命を奪ったことへの罰なのでしょう。どうにかして回避する手段はあった筈だったのに、それを怠ったせいで起こったことへの。
祖母や家族に中絶手術のことがバレた後から、彼女らが私の行動に目を光らせるようになりました。私自身もあれこれと言い訳をしたり、ひたすら逃げ隠れしたり、兄からの暴力を回避出来ることが増えました。
その頃に兄に「子供が出来んかったらええんやろ」と強行されそうになったこともありましたが、それでも「嫌だ」と言えるようになりました。
嫌だと、逃げることが出来た筈だということです。回避出来た筈だったということです。だから、それをしなかった罰が下ったのでしょう。
手術の日から毎年毎月、私は必ず月命日に手を合わせます。必ず子供の為のお供え物を買います。時々、お小遣いをあげます。
私に出来ることは決して多くはありません。決して忘れないこと。同じ過ちを繰り返さないこと。それくらいのものです。
最後に
これは、ただの私の記録のようなものです。あの子を、あの日を、忘れないためのひとつの手段。
子供へのお小遣いは、数年前から、少額ずつ、年に1〜2回程度渡すようにしています。部屋の一画に子供のためのスペースを用意し、そこに少しずつ貯めています。
とは言えあの子のためにと用意するプレゼントなどは私のお金から出ているので、このお金はただ貯まっているだけ。
だからこのお小遣いは、あの子の代わりに誰かが人生を変えられるお手伝いをするためのお金として使いたいと思っています。
兄をはじめとした家族から逃げるように県外に出て、今の住まいに居ます。故に基本顔出しは出来ません。居場所バレ防止のためです。
二度とあの地獄に戻らないように。同じ過ちが起こるかも知れない、そんな可能性も排除出来るように。
こんな重い話を最後まで読んで下さってありがとうございます。
あなたのこれからの人生が、明るいものでありますように。