世界の美しい瞬間25
25 あんばい・改
前に書いた文章を読み返してみると、なんだか消極的な話にも受け取れるなぁと反省。
なので、今日は自分へ向けた教訓であり、エールであり、メッセージを書くことにした。
折り合いとは、妥協ではない。
塩梅は妥協案を出し合うことではない。
理想は理想として、今の自分にはこれこれこういうことまではできるが、足りないが故にできないこともある、と相手に話す、伝える、説得を試みることから始まるということなのだ。
自分の確固たる信念があり、正誤や善悪ではなく、自分を貫くためにそうする。
嫌だから相手を非難する、周りをマイナスの味方に引き込んで相手を潰そうとする、ということではない。
相手を敵にして戦うのではなく、信念を貫くが故に相手をこちらの味方にしてしまうほどの本気があるか、ということだと思う。
もしもどちらかが、自分ではない誰かのルールや都合で動いていたとするなら、その方が折れるか撤退するか、はたまた何らかの不当なリアクションに走るだろう。
そして、それを見た第三者がどう感じるかである。
誰かの命令や望まぬ仕事や、責任をとりたくないからか、伝統や雰囲気のなんとなくではなく、周囲を巻き込めるほどの熱意はあるか、本気度はあるか。
それを試されているはずなのだ。
そこで、そこにだけの唯一のちょうどいいねが生まれる、それが塩梅であり折り合いだと思うのだ。
他では絶対に通用しない、この今の、この面子の、この空間の、ここでしかあり得ないことであったとしても。
その生まれた瞬間こそが、他では味わえない、そこだけの快であり、何より美しいのではないかと思う。
後から反省があってもいい、失敗するから次に挑戦する。
だが、昔からこうだったから、常識としてこうだから、そうでしょ、というのは通用しない。
昔とはいつか。常識とは誰のか。今の時代に沿っているか。変化のない企業が倒れて来たように、全てが水のように変化していくものだと、
しなやかで在るからこそ次世代へ繋げるのではないのか。
今日は、本当に本当に腹の底から敬愛してやまないひとたちのライブに行って、そういうことがしたい、表現したかったのだと腑に落ちた。
完璧でない自分を責める必要はない。呆れ果てるくらいどうしようもない自分に気付くからこそ、じゃあどうしようかとあれこれ試行錯誤する。そして、今の塩梅に落とし込むのだ。
寝ても覚めても100点満点だった日が人生のうち一日でもあるだろうか。今にもこの文章を読み返して明日反省するだろう。
だが、やらないよりは、やる選択をした。
わたしたちは、当たり前だが、毎日死に向かっている。
だからこそ、他の人生を生きるな、
自分の人生を、今ここを生きろと。