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世界の美しい瞬間 26
26 どきどき
先に言っておくが、頭がおかしくなっているわけではない。
おかしいと思う人は思えばいいか、何でも全てその人の世界観のことなのだ。
わたしはただ自分へ書きたい。
自分へのラブレターだ。
毎日朝起きて、会社に行って、仕事して、楽しく会話をし、ご飯をつくり、おいしく食べ、親との関係も悪くなく、友達もBFもおり、休日も充実、でも、とりたてて特筆することはなく、なんということのないちっぽけな存在だ。
最近、世界が美しいのだが、それも、ぐにゃぐにゃなのだ。
過去にもあった。階段から落ちて頭を打った直後。
そのときのぐにゃぐにゃは、この世界はなんでもありで、カオスなのだと知覚した。知識でなく、感じ、覚った。
だから、好きなものを選べるし、今も選んでいるのだ。それを気に入ろうが気に入るまいが、自分で作っているに過ぎないのだ。
と、知り始めた。
ちなみに階段から落ちる方法は全くお勧めしないが、今、それ以降のぐにゃぐにゃっぷりだ。
だから、目の前に起きたことで、知らない/知っている他人が、勝手に言葉を発し、勝手に状況をつくるように見えて、実はそれらをまるごと自分で作っているのだと、毎日毎日知る。経験する。
向こうから歩いて来た爽やかなおじさんも、すましたイケメンも、かわいらしいお嬢さんも、会話に夢中なおばあちゃんたちも、すべて自分で作っている自分の世界だと、容赦なく、優しく、或いは叩きつけられるように知らされる。
そして、昨日まで素知らぬ顔のあの人は、なぜ今日はここまで動いてくれるのかと驚く。
毎瞬、わたしは移動しているのだね。
このたまらなく好きな音楽は、このお気に入りのカップは、あの美術館で出会ったお皿は、絵は、手の届かない他人が作ったように見えて、同時に、作ったのはわたしなのだ。
わたしの代わりに作ってくれたのだ。
だから、わたしが作ったものは、同時にそれを望んだ誰かが作ったものなのだ。
誰かの代わりに作ったのだ。
ものだけでなく、こともそうである。
出逢い、会話、互いが行動した結果、できた。
自他の区別なく、時間の区別が「今」しかなくなっていく。
もちろん、肉体の物理的な時間は有限だ。だから、精一杯今を生ききる。
だが、魂の時間は無限だ。
宇宙から見ると、微細に至るまでこれらは平等だが、何か、三次元的な見方に変えれば完全なる不平等でもある。
時々感情の澱に驚くが、それでも、それは世界から愛されているに過ぎないと気が付いたときの、スッキリ感。
文句のつけようもなく、感謝しかない。
あなたはわたしの鏡であり、わたしはあなたの鏡だ。
あなたを見て、わたしはわたしを少し知る。
わたしを見て、あなたが望み、動けば、あなたはあなたを少し知るだろう。
他人への文句や罵詈雑言と思って発していたものは、自分自身へ言っていたものと気付き、
他人への賛辞や敬愛と思って発したものは、そのまま自分自身へのことであると気付く。
これが通じる人となら、言葉も発した先から時間と流れて行き、共にいるだけで、互いを思いやり、想いを、純粋なエネルギーを、循環し合えるかも知れない。
過去に存在したあの人、今はそこら中に散らばっているのね。物に宿り、自然に宿っているのね。
どこに行こう、誰と会おう、何をしよう、あの場所へ向かうために。そのために。
ああ、本当にね。
どきどきするのだよ。