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まとめ編16:アクションと立回りアート
石田憲一
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1月は、過去の配信を1週間分ごとにまとめて編集したものをお届けします。
<アクションと立回りアート>
●概念を整理する
イントロ:毎週月曜日の超ハード・ワークアウト
バレエと相撲の研究
バレエの世界史
四股鍛錬で作る達人
概念整理によって、あるべき姿、進むべき方向を確認する。
日本の独自概念としての片仮名アクションと立回りは、現在のコンテンポラリー・アクション、格闘表現とは分けて独自の道を確保して進むべき。
●殺陣と立回り
『殺陣チャンバラ映画史』永田哲朗より
タテは「立手」で能から来ており、「働き」の意。
陣立て、いくさ立てが原典であり兵法の言葉。
元禄以降、太刀打ち、兵法、修羅事などに用いられ、これに見世物から力技、足技、早技が入ってきて、トンボが取り入れられる。
元禄:1689 - 1704
「立回り」が定着=享保
享保:1716 - 1736
二人での斬り合い、組討ちを立回り、大勢の場合はタテといって使い分けた。
明治以降、二つは混同して使われるようになった。
様式化・軽業式になったのは安永〜天明
安永:1773 - 1781
天明:1782 - 1789
享和:1802 - 1804 →「殺陣」の表記
殺陣=外側視点からの認識=カラミ視点、殺陣師視点
=剣友会用語的ニュアンス=立てるは、主役を立てるの意
立回り=内側視点からの認識=主役視点
●アクションとは何か?
今回はアクションの対立概念として、殺陣・立回りという流れ全体を、便宜上「殺陣文化」としてまとめて考える視点を設定しておく。
殺陣文化との差異化という観点から、アクションについて語るのが今日のテーマ。
アクションとは、殺陣文化とは異なる文脈から生まれた身体文化であると捉える。
アクション=身体能力対応型演劇内表現
要求される表現の範囲が広いということ、そして常にまだ行われていない未知の表現を要求されるということから、表現の形式そのものが存在していなかった時代に誕生したことが、身体能力による対応を必然化した。
その結果、様々なスポーツや武道などで身体能力を高めることが有効であるという方法論が確立された。
その中でも、器械体操系運動が即戦力的に有効であることから、導入される傾向が強まった。
これらの方法論が、独自技術を持たない無空中枢構造を形成するに至ったが、実際は全くないわけではなく、無空中枢に経験則として蓄積されていたものも多々ある。しかし、個人差が大きいため、方法論としては確立されてこなかった。
一方、作品として要求された格闘表現において、有効機能した武道などが器械体操と同様に、身体能力を高めること以上に重視されるような誤認を一部の間で生み出した。それはアクションの独自体系が存在しないためである。
だが、日本独自の殺陣文化の存在により、格闘表現もまた独自表現として土台を築いた。結果的にこれが殺陣文化とアクションの融合としての完成形を生み出すに至った。(これまでの立回り型アクション)
●立回りとは何か?
アクションと立回りは別ものであるという前提。両者は混ぜて考えず、分けて立回りの本質に迫る。
そのために殺陣という概念=フォーメーションとしての振付けと、カラミというポジションは外して考える。これが殺陣文化ではなく、立回りについて考える、その際たる理由である。
刀と徒手打撃は分けずに(分ける必要がない)、共通点をピックアップする。
まず、うまく立ち回るための運動構造がある。これを身につけることで、歯車が噛み合うように、動作が澱みなく流れるようになる。また相手と合わせることが容易になる。
次に武器としての技がある。それは刀の操作であり、徒手打撃だが、ポイントは、運動構造に乗って出せること。その前提で、わかりやすいこと。相手が反応しやすいこと。そして力強いこと=腰が入っていること。
さらに見栄えがする形であること。
そして自分独自の形態であること。
これらの条件を段階的に満たしていくことで、完成形に近づけていく。
そして武術的闘争のセオリーに基づく様式を理解して活用することを基本とする。それらは具体的には間や間合い、相手に対する意識の配り方などに反映される形で表現される。
以上が、単なる格闘表現とは異なる、立回りの独自性、その一端である。
●立回りアート
立回りアートとは、ひとことで言えば、アクション文化からアクション概念を捨て、殺陣文化から殺陣概念を捨てることで、両者のいいとこ取りをしながら、立回り文化として再構築したものであり、その名称である。
殺陣文化の中から、殺陣の「主役を立てる」という機能は捨て、「主役としてどう立ち回るか」に絞り込む。それが殺陣概念を外すことであり、インディビジュアル・アクションへの通道でもある。
ポイントは、アクションからの離脱。というのも現在のアクションは、本来の姿とは異なるものに変容してしまっているから。
まず立回りは技術であるということ。そして身体表現である。これが1番目。
だからこそそれを中心に据えるには、不要な物を取り除くことが大事。
故に殺陣概念を捨て、アクションを捨てるのである。
立回りをベースにアクションのいいとこ取りをしながら、2種類のアクショノイドにならないように(分業型格闘アクション・専門型格闘アクション)ゴールをアクションスター級に設定する。
なおかつ目的を俳優のバージョンアップに設定することで、身体能力の向上は、個々の目的に合わせて調整できる。
つまり俳優ベースなら、身体能力の向上は控え目に最小限で。本気でアクションスターを目指すなら、身体能力向上はたっぷり行えばいい。いずれにしても、パフォーマンスのクオリティを向上させながら、それ以上のダイナミックな展開はアクション要素=モビリティの向上を個人の努力として行えば良いということ。
この自由裁量でできる自律性に基づく上達が、立回りアートの特徴と言える。
<アクションと立回りアート>
●概念を整理する
イントロ:毎週月曜日の超ハード・ワークアウト
バレエと相撲の研究
バレエの世界史
四股鍛錬で作る達人
概念整理によって、あるべき姿、進むべき方向を確認する。
日本の独自概念としての片仮名アクションと立回りは、現在のコンテンポラリー・アクション、格闘表現とは分けて独自の道を確保して進むべき。
●殺陣と立回り
『殺陣チャンバラ映画史』永田哲朗より
タテは「立手」で能から来ており、「働き」の意。
陣立て、いくさ立てが原典であり兵法の言葉。
元禄以降、太刀打ち、兵法、修羅事などに用いられ、これに見世物から力技、足技、早技が入ってきて、トンボが取り入れられる。
元禄:1689 - 1704
「立回り」が定着=享保
享保:1716 - 1736
二人での斬り合い、組討ちを立回り、大勢の場合はタテといって使い分けた。
明治以降、二つは混同して使われるようになった。
様式化・軽業式になったのは安永〜天明
安永:1773 - 1781
天明:1782 - 1789
享和:1802 - 1804 →「殺陣」の表記
殺陣=外側視点からの認識=カラミ視点、殺陣師視点
=剣友会用語的ニュアンス=立てるは、主役を立てるの意
立回り=内側視点からの認識=主役視点
●アクションとは何か?
今回はアクションの対立概念として、殺陣・立回りという流れ全体を、便宜上「殺陣文化」としてまとめて考える視点を設定しておく。
殺陣文化との差異化という観点から、アクションについて語るのが今日のテーマ。
アクションとは、殺陣文化とは異なる文脈から生まれた身体文化であると捉える。
アクション=身体能力対応型演劇内表現
要求される表現の範囲が広いということ、そして常にまだ行われていない未知の表現を要求されるということから、表現の形式そのものが存在していなかった時代に誕生したことが、身体能力による対応を必然化した。
その結果、様々なスポーツや武道などで身体能力を高めることが有効であるという方法論が確立された。
その中でも、器械体操系運動が即戦力的に有効であることから、導入される傾向が強まった。
これらの方法論が、独自技術を持たない無空中枢構造を形成するに至ったが、実際は全くないわけではなく、無空中枢に経験則として蓄積されていたものも多々ある。しかし、個人差が大きいため、方法論としては確立されてこなかった。
一方、作品として要求された格闘表現において、有効機能した武道などが器械体操と同様に、身体能力を高めること以上に重視されるような誤認を一部の間で生み出した。それはアクションの独自体系が存在しないためである。
だが、日本独自の殺陣文化の存在により、格闘表現もまた独自表現として土台を築いた。結果的にこれが殺陣文化とアクションの融合としての完成形を生み出すに至った。(これまでの立回り型アクション)
●立回りとは何か?
アクションと立回りは別ものであるという前提。両者は混ぜて考えず、分けて立回りの本質に迫る。
そのために殺陣という概念=フォーメーションとしての振付けと、カラミというポジションは外して考える。これが殺陣文化ではなく、立回りについて考える、その際たる理由である。
刀と徒手打撃は分けずに(分ける必要がない)、共通点をピックアップする。
まず、うまく立ち回るための運動構造がある。これを身につけることで、歯車が噛み合うように、動作が澱みなく流れるようになる。また相手と合わせることが容易になる。
次に武器としての技がある。それは刀の操作であり、徒手打撃だが、ポイントは、運動構造に乗って出せること。その前提で、わかりやすいこと。相手が反応しやすいこと。そして力強いこと=腰が入っていること。
さらに見栄えがする形であること。
そして自分独自の形態であること。
これらの条件を段階的に満たしていくことで、完成形に近づけていく。
そして武術的闘争のセオリーに基づく様式を理解して活用することを基本とする。それらは具体的には間や間合い、相手に対する意識の配り方などに反映される形で表現される。
以上が、単なる格闘表現とは異なる、立回りの独自性、その一端である。
●立回りアート
立回りアートとは、ひとことで言えば、アクション文化からアクション概念を捨て、殺陣文化から殺陣概念を捨てることで、両者のいいとこ取りをしながら、立回り文化として再構築したものであり、その名称である。
殺陣文化の中から、殺陣の「主役を立てる」という機能は捨て、「主役としてどう立ち回るか」に絞り込む。それが殺陣概念を外すことであり、インディビジュアル・アクションへの通道でもある。
ポイントは、アクションからの離脱。というのも現在のアクションは、本来の姿とは異なるものに変容してしまっているから。
まず立回りは技術であるということ。そして身体表現である。これが1番目。
だからこそそれを中心に据えるには、不要な物を取り除くことが大事。
故に殺陣概念を捨て、アクションを捨てるのである。
立回りをベースにアクションのいいとこ取りをしながら、2種類のアクショノイドにならないように(分業型格闘アクション・専門型格闘アクション)ゴールをアクションスター級に設定する。
なおかつ目的を俳優のバージョンアップに設定することで、身体能力の向上は、個々の目的に合わせて調整できる。
つまり俳優ベースなら、身体能力の向上は控え目に最小限で。本気でアクションスターを目指すなら、身体能力向上はたっぷり行えばいい。いずれにしても、パフォーマンスのクオリティを向上させながら、それ以上のダイナミックな展開はアクション要素=モビリティの向上を個人の努力として行えば良いということ。
この自由裁量でできる自律性に基づく上達が、立回りアートの特徴と言える。